ユーザビリティとUXの関係 その2
僕の品質特性図では、設計時の品質と利用時の品質を区別し、客観的品質と主観的品質を区別することで、四つの品質を分けることになった。設計時の品質がまずあって、その結果として製品品質ができ、それが利用されて利用時の品質となる、と考えるのが適切と思われたからだ。
(「ユーザビリティとUXの関係 その1」からのつづき)
2014年の後半以降、図1を使っているのだが、図5が図1のように変化した背景には、まずISO/IEC 25010:2011との出会いがある。25010の旧バージョンであるISO/IEC 9126-1でも、ユーザビリティは外部品質/内部品質の側にあり、利用時の品質(quality in use)の側とは異なっていたのだが、9126-1では、9241-11でユーザビリティの下位概念とされている効率(efficiency)は外部品質/内部品質の側に位置づけられており、有効さ(effectiveness)は利用時の品質の側に位置づけられていてバラバラになっていた。そのため、いまひとつ整合性に疑問があり、利用時品質とユーザビリティの違いについても無視していた。
しかし、25010ではユーザビリティは外部品質/内部品質が進化した製品品質という概念の側に、有効さと効率は利用時の品質の側に区別され、9241-11との整合性がとれてきたため、僕も改めてユーザビリティと利用時の品質を区別するようにしたのである。ただし、25010では有効さと効率とあわせて満足感も利用時の品質に含められており、ある意味では9241-11の持っていた問題点をそのまま引きずっているものと見えた。
その時、僕にヒントを与えてくれたのが、行動経済学者のKahnemanやUX研究者のHassenzahlが使ったhedonicというキーワードである。特にHassenzahlはhedonic attributesをpragmatic attributesと区別しており、僕はこれを感性的属性と実用的属性と訳して大いに活用させてもらうことにした。また、振り返ってみれば、JordanもPleasureという概念をユーザビリティの上位にくる概念として重視しているし、満足感を含めた感性的な側面を実用的な側面と対比的に位置づけることには正当性があると考えられた。
その結果、僕の概念図では、設計時の品質と利用時の品質を区別し、客観的品質と主観的品質を区別することで、四つの品質を分けることになった。なお、25010では製品品質という言い方をしているが、利用時の品質という言い方をするなら、その反対は、設計時の(に考慮すべき)品質とすべきであろうと考え、設計時の品質がまずあって、その結果として製品品質ができ、それが利用されて利用時の品質となる、と考えるのが適切と思われた。
また、実用的な品質という言い方をするよりは、ユーザビリティにしても、信頼性にしても、性能にしても、いずれも客観的に定量的に測定することができるため、それらを客観的品質とした。反対に、満足感や嬉しさなどはユーザの気持ちの問題であり、評定尺度のような心理学的手法を使わないと外化ないし定量化できないため、主観的品質と呼ぶことにした。
なお、UXについては、あくまでも利用した時の、あるいは利用した上での経験であるという考えから、設計時の品質ではなく利用時の品質に関係するものとし、ただ、品質特性だけで一意に決まるものではなく、利用者の特性や利用状況によっても影響されるので、それら全体をくくって、その全体と関係あるものとした。
それが図1である。
品質特性図についての詳しい説明
ここで、図1について改めて詳しい説明をすることにしよう。改めて図1を図6として再掲することにする。
まず全体の大きな構造について説明すると、左から右に、まず設計時の品質があり、製品品質があり、利用時の品質がある、という形になっている。そして、UXは利用時の品質にユーザ特性と利用状況を含んだ大きな枠として示されている。
また上下には、客観的品質と主観的品質があり、設計時の品質と利用時の品質との組み合わせで、客観的設計時の品質、客観的利用時の品質、主観的設計時の品質、主観的利用時の品質、と四つに大別されるようになっている。製品品質は、いちおう位置づけられているが、設計時の品質の結果なので、詳しくは触れない。
客観的設計時品質
まず客観的設計時品質から説明すると、ここにはユーザビリティから維持性、そして新奇性と稀少性が含まれている。特に注意していただきたいのは、英語ではabilityという語尾のついた言葉が多い点だ。Abilityというのは「何かができること」であり「能力」である。いいかえれば、そうしたポテンシャルをもっていること、つまり設計者の努力によってそうしたポテンシャルを持たされていることを意味している。
しかし、ポテンシャルは結果に直結するものではない。それは高校の学力と受験の合否の関係に似ている。学力が高いことは望ましいが、だからといって確実に受験に合格するとは限らない。いうまでもなく、学力は設計時の品質に、受験の合否は利用時の品質に対応し、ひいてはUXにも関係する。
客観的設計時の品質には、そうしたabilityの類が含まれている。そしてたとえばユーザビリティについては、認知しやすさ、記憶しやすさなどの副特性がリストしてある。こうした副特性は、機能性や性能、信頼性などについても存在するが、図が煩雑になるため省略してある。もちろん、この構造は25010の影響を受けたものである。ただし、25010では客観的特性と主観的特性を区別していないので、その点では相違がある。
新奇性と稀少性は、客観的設計時の品質に含まれているが、これはその人工物の出現時期からの経過時間とか、その人工物の絶対数という形で客観的に測定は可能だが、これらは消費者やユーザにとっては主観的設計時の品質として魅力にはつながるものの、客観的利用時の品質にはつながらないものであるため、主観的設計時の品質の魅力の下に位置づけてある。
主観的設計時品質
その魅力というのは、人を魅了するポテンシャルをもってはいるが、それによって消費者やユーザが満足することは保証できない、という意味で、主観的設計時の品質となっている。その下には、先に述べた新奇性や稀少性の他に、感性訴求性とニーズ訴求性が含まれている。
感性訴求性というのは、たとえばぬいぐるみを可愛く作ろうとして素材や形状などをデザインすることだが、可愛く作ってあっても、誰もが可愛いと思ってくれる保証はない。具体例をあげれば、僕はモンチッチが嫌いである。可愛くつくってあるな、とは思うのだが、持ち主におもねるような目つきが気にいらないからである。
世の中にはこうしたケースもあるわけで、魅力を高めようと努力しても、必ずしもその努力は報いられないのだ。ニーズ訴求性も同様で、消費者やユーザのニーズに訴求できる特徴を入れ込んでみても、ユーザ特性、たとえば性格や嗜好によって、受容されない場合も起きうる。
こうした客観的設計時の品質と主観的設計時の品質とは、直接、対応した客観的利用時の品質と主観的利用時の品質とに影響を与えるが、それと同時に、客観的設計時の品質がきちんとできているかどうかという知覚は、主観的利用時の品質にも影響するものである。太い矢印は、そのことを意味している。
客観的利用時品質
客観的利用時の品質は、有効さや効率、生産性などで構成されており、ここも基本的には25010に対応している。ただ、9126-1に含まれていた生産性が25010では削除されている点には不満を感じているので、ここではそれを復活させている。この客観的利用時の品質が良かったか悪かったかという知覚は、先の客観的設計時の品質の知覚と同様に、主観的利用時の品質に影響を及ぼしている。
主観的利用時品質
その結果、すべての品質特性は、最終的に主観的利用時の品質に集約されることになる。その主観的利用時の品質は、前述の理由から満足感をトップとし、その下に、達成感や安心感、楽しさや喜ばしさなどを副特性として持つ形になっている。この主観的利用時の品質のうち、楽しさ以下の部分は感性的品質ともいえる(なお、達成感や安心感は感性というより感情と言ったほうが良い)。ここにあげたのはポジティブな感性的品質だが、これらの他にもまだリストされていない特性はあると考えている。
まとめ
以上が、図6に示した現在の品質特性図の構成である。ここから言えることは、
- ユーザビリティは客観的設計時の品質の一つであり、利用時の品質とはフェーズが異なっていること
- 満足感は、究極的な品質特性といえること
- UXは利用時の品質(客観的、主観的)と関係するもので、設計時の品質(客観的、主観的)の影響を受けるものの、それによって確定されるものではないこと
- いわんや、ユーザビリティを高めたからUXが高くなるというのは短絡的な発想であること
- したがってUXDという表現は、UXは設計しうるものであるという考え方を反映したものであり、設計サイドの尊大な態度をあらわすものであること
- UXの評価指標としては、満足感を用いるのが適切と考えられること
などである。
なお、この内容は、ISO/IEC 25010 (JTC1系)ともISO 9241-11 (TC159系)とも異なるものなのだが、これを持ってISO規格の議論に参加するつもりはない。そもそも、満足感の位置づけについて十数年前から問題提起をしてきたが、「その考え方はそれなりに分かるが、規格はこうなっていて、もうそれを元にした関連規格も沢山できてしまっている」というような理由から全く採択されることはなかった。まあ無理もないだろうと考えている。
ISOの委員会というのは提案者が強い主張を行い、その他の委員はその協力者ないし同調者という位置づけとして参加していることが多い。そこに根本から違う考え方をもっていっても、議論は発散し、ことによると根底から覆されてしまうことになりかねない。
そんなことを考えて、僕は図6の考え方が固まってきたのを機に、ISOの国内委員会には参加せず、国際委員会の動向は注視するのみ、というスタンスを取ることに決めた。我が道を行く、というスタンスである。