まず概念をきちんとしよう

明確で共有できる定義がない状態だと、同じ言葉をお互いに少しずつ違ったイメージをもたせながら使い、意味が通じているような錯覚に陥ってしまいかねない。アカデミアの人だけでなく実務家の皆さんも、自分の使っている概念について外延的な定義を明確に持ち、他人に説明ができるようにする必要があるだろう。

  • 黒須教授
  • 2013年2月25日

「ここで結論を下すのは時期尚早である。なぜなら、そこでは1つの重要な問いが看過されているからである。それは、これまで「集団主義」と概念的に一括されていたものの中にも性質や内容が異なる複数の種類が存在し、さらにそのいずれが優勢なのかに関して文化差が存在する可能性である」

(結城雅樹 (2008) “北米人の集団主義” 心理学ワールド40号 p.17-20)

これは日本心理学会が出している雑誌に掲載されていた文章の中の一節であり、心理学という学問領域のなかでも「概念的に一括」するようなことが行われてきたし、それが事象の的確な把握を困難にしていることを述べたものだ。

要するに、アカデミアの世界でも、概念をきちんと規定せずに議論が行われ、それなりの結論に人々が納得してしまい、誰かが問題提起をするまで、あるいは何らかの問題が発生してくるまでは、そのままになってしまいがちなことがある、ということでもある。

いったいどうしてそのようなことが起きてしまうのだろう。一番典型的なのは、何らかの考え方を抱いた人が、自分の専門領域的背景や文化的背景に関する自覚が乏しいままにある概念を使って問題提起をする。その言明が少なくとも表面的に納得性や了解性が高い場合には、その概念に関する厳密な吟味を経ずにその概念が流通しはじめてしまう、というケースだと思う。概念の創始者の場合がそうだとして、更にその受け売りをして日常的に使ってしまう人たち―僕なんかもその中に含まれるのだが―の場合には、LBE (Learning by Example)的に考えると、自分の経験のなかにそれに該当すると思われるできごとがあったりすると、もうそれだけで納得してしまう傾向があるようである。そして厳密にそれを吟味することなく、また知人たちとの間でその議論をすることもなく、お互いに少しずつ違ったイメージをもたせながら同じ言葉を使い、意味が通じているような錯覚に陥ってしまうのだ。60年代や70年代の学生運動の時には、そうした言葉の使い方が溢れていたことを思い出す。学生たちの使っていた概念が、多少の具体性のイメージを持ちながらも、それに対する厳密な議論を経ずに他の概念と組み合わされ、空虚なロジックを構築していた。今から思うとそんな風に思わざるを得ない。

これは単なる回顧譚ではない。たとえば、ユーザビリティという概念については、TC 159系とJTC 1系で異なる定義が与えられているが、それなりの定義はある。さらにISO 9241-11の定義であれば、有効さや効率という概念については、多少雑ぱくではあるが、操作的な規定がなされており、まあ安心して議論を行うことができる。しかし、ISO 9241-11でも満足感となると、その定義は貧弱なものである。曰く「不快さのないこと、及び製品使用に対しての肯定的な態度」となっている(JIS Z 8521)。不快さがないことは快適であることを意味しない。単に不快さがないだけであって、積極的な快適さを意味しているとは限らないからだ。この前半部の定義だけでは、満足感の定義としては明らかに不十分である。では肯定的な態度という後半部はどうか。こちらは積極的にポジティブな意味合いを表現しているが、それが満足感なのか、快適さなのか、楽しさなのか、うれしさなのか等々を考えると、どうして満足感の定義として提示されているのかが分からなくなる。

もっとひどい例がUXやサービスである。HCDの分野でこれらの概念が使われるようになって久しいが、誰でも知っているようにUXについては明確で共有できる定義がない。提唱者のNormanは、ユーザビリティでは物足りないからという理由でこの表現を提起した。しかし何が足りないのかを具体的に明示しなかったのはNormanの失策といえる。それを逆手にとって、やれ楽しさだ、美しさだ、という議論が後に続いたのは2000年代の歴史を振り返ってみれば良くわかる。そうした流れのなかでUPAまでがUXPAと名前を変えた。サービスだって同様である。誰でも何らかのサービスを受けた経験を豊富にもっていると思われるが、サービスという概念について抱いているイメージは、店員の態度かもしれないし、アフターケアのことかもしれないし、いやもっと経済学的な意味で使っているのかもしれない。しかし、そもそも第三次産業を言い始めたClarkにしてからが、(少なくとも僕の調べた範囲では)きちんとした定義を与えてはいない。言ってみれば第一次産業でも第二次産業でもないものを、ごったに第三次産業と言ってしまったようにも思われる。

そうした概念のことは専門家に任せておけばいいという実務家の皆さんが多いかもしれないが、それで本当にいいと思われるのだろうか。実際にその業務に携わっている実務家の皆さんは、言語化や概念操作に慣れていないこともあるだろう。しかし、少なくとも具体的なイメージのレベルでは、自分の使っている概念について外延的な定義を明確に持ち、必要な時には「こういうことだと思ってますが」といったようにして他人に説明ができるような水準であるようにする必要があるだろう。

Original photo by: greeblie