バズワードの罠

より多くの人々がその言葉に魅力を感じて使い始めると、当初の意図や定義はどこへやら、概念は発散し、もはや意味をなさなくなる。魅力を感じさせていたものが魅力を失うことになってしまうのだ。

  • 黒須教授
  • 2014年9月24日

UXという言葉の鮮度の低下

そろそろUXという言葉の鮮度が落ちてきたようだ。定着したといえば聞こえはいいが、人々はぞろ新しいバズワードを探しはじめたようである。それはバズワードというものの宿命であり致し方ないこととはいえ、そもそもバズワードとして脚光をあびてしまったこと自体が残念でもある。もちろん、この流行によって特に欧州においてまともな研究が加速されたことは良いことだったと思うし、まともな研究はそのまま持続して欲しいものだと思っている。

UXという言葉の最盛期はおよそ10年くらいだった、といえるだろう。十年一昔という言い方があるが、たしかに10年というのは短いようで結構長い。その間にUXという言葉にも色々な経緯があった。当初は、その言葉の目新しさからユーザビリティを言い換えて使うだけの人もいた。そういう人は今でも残っているようだが、それは単なる新しい物好きであり、不勉強の故であるともいえるだろう。最初にNormanが使い始めた意図も、ある程度漠然としたものだったし、皆が共有できる明確な定義はついにあらわれなかった。しかし、それはそれで議論を活性化させるのに良かったのかもしれない。

同様のバズワード: ユニバーサルデザイン

たとえば同様なバズワードとしてユニバーサルデザインという言葉を考えてみたい。それについて共有されていた定義はMaceのものだったようであり、そうでないようでもあった。Maceの定義と7原則はしばしば引用されたが、車椅子利用者であり建築家でもあった彼の個人的事情を反映した側面が強いものだった。その意味では完璧な定義とはいえないし、結果的に各人各様の類似の定義が氾濫することにもなった。

またアクセシビリティという概念との混同もかなり甚だしかった。こうした混同がおきたのは、アクセシビリティよりも広い意味を持つ言葉が出てきたからとも考えられるが、バズワードとしてのユニバーサルデザインの隆盛に惹かれた関係者が多かったからともいえるだろう。あげくはグッドデザイン的なものやユーザビリティデザイン的なものまでもユニバーサルデザインと呼んでしまうような状態に至り、バズワードとしては発散しすぎだな、と思っていた。

バズワードの知名度にあやかろうとする人たちが多くなってくると、その概念は広く使われるようにはなるが、反面、定義が曖昧になる。よく言えばそれが常識化した、悪く言えばバズワードとしての生命を終えたという状態になった。既にバズワードとしての生命は終えてしまったユニバーサルデザインという概念だが、良い面としては、それなりに小さくタイトになった現在、ようやく本来の使い方に戻るようになった、ともいえる。

バズワードになれば概念は発散し、意味をなさなくなる

UXに話を戻すと、まともな研究の方向としてはUX白書が刊行されたし、ISO 13407がUX概念を含んだISO 9241-210となった。これによって、広範で漠然とした概念が整理され、きちんとした方向づけがなされるかとも期待したが、実際にはそうはならなかった。UX白書はそれなりの影響力を持っていたし、僕自身もその時間相の考え方が気に入って、それを発展させたモデルを考えたりもした。またISO 9241-210がサービスを含めた点については、ヒューマンウェアという概念と対応することから、それを含めたUX概念の拡張として経験工学の考え方を提示するにも至った。

しかし、UXDというキーワードが普及するようになった頃から、バズワードとしての生命力が復活してしまった。アメリカでも何人かの識者は、UXは個人の主観であり、それをデザインすること(UX design)はできず、「そのためにデザインをする(design for UX)」ことができるだけなのだと主張していたが、多勢に無勢だった。語呂も良かったのだろう。結果的にはUXDという言葉が普通語として流通するようになってしまった。

ちょうどその頃だろう、突然、UPAがUXPAと名称変更をした。これは会員内部に結構混乱を引き起こしたようだったが、要するに微減していたUPAの会員数を増加に転じさせようという対策であり、まさにバズワードとしての性格を利用しようとしたものだった。学会内部での概念に関する議論もきちんと行わずに名称だけを変更したことに対してはドイツのチャプターあたりから反発を受けたし、結果的に会員数の漸減傾向は止まらないでいる。

僕自身は、バズワードとしての扱いには当初から反発を感じていたので、もっと概念規定をきちんとすべきだという趣旨で講演をしたりしたのだが、世の中の動きの慣性(イナーシャ)というものには恐ろしい力がある。それを本稿ではバズワードの罠と呼んでいるのだが、より多くの人々がその言葉に魅力を感じて使い始めると、当初の意図や定義はどこへやら、という状態になる。それでも人々が使うことをやめないと、概念は発散し、もはや意味をなさなくなる。魅力を感じさせていたものが魅力を失うことになってしまうのだ。それを罠、と呼んだ。

次のバズワードは、デザイン思考とイノベーション

現在、次の候補としては、デザイン思考とかイノベーション(後者は何度目かの流行だが、世代交代をしてしまったので、新しい世代には新鮮に響くのだろう)というあたりが考えられる。というか、すでにバズワードとしてそれなりのポジションを占めてしまっている。バズワードはそんなにたくさん必要とされない。瞬間的に思い出せる範囲の数、いや極端に言えば該当分野で一つあれば十分なのだ。何冊か関連書も読んでみたが、僕的には、デザイン思考は人間中心設計のアプローチと何が違うのか分からないし、イノベーションはかけ声にすぎないと思っている。ちょっと安心しているのは、人間中心設計という言葉が、あまりに中立的でおもしろみがないからだろうか、バズワードにならなかったことが幸いだったと思っている次第である。