サービス業とサービスの心
サービス業におけるサービス活動について、「心」や「気持ち」というものがサービスの特性の一つとして認識されるようになれば、サービスがもたらす嬉しさの質が向上することにつながるだろう。
サービス業におけるサービス
サービスという概念は、形のない財のことであり、役務などと呼ばれることもある。その特徴についてザイサムル達(Zeithaml, Parasuraman, & Berry 1985)は、それまでに発表された26件以上もの研究における主張を表形式にまとめてサービスの特性を整理している。それによると、サービスが形ある財、いわゆる製品と異なるのは、無形性(intangibility)、生産と消費の不可分性(inseparability of production and consumption)、多様性(heterogeneity)、そして消滅性(perishability)という点だとしている。多様性というのは、標準化されていないこと(nonstandardization)ということもできる。(p.34より)
たしかに、直接的な対人サービスもネットを介した非対人サービスも、そうした特性をもっていることは否定できないが、サービス業において行われるサービス活動については、もう一つの特性として「心」や「気持ち」というものを忘れてはいけないのではないか、という気がしている。いわゆる「お・も・て・な・し」という奴である。もちろん業として成立し、対価を手にすることができるなら、業者の立場からは「心」や「気持ち」が欠落していてもそれなりに完結したものにはなるだろうが、そして、特に日本人だからというつもりはないのだが、ユーザの立場からすれば「心」や「気持ち」の入っていない無機質なサービス活動はうれしさをもたらす水準が低いように思う。
サービスと比べたときに、製品というものはその存在自体で完結してしまうものであるため、「心」や「気持ち」をユーザに伝えることは難しいが、それでも「心」や「気持ち」を込めて作られたモノは、それなりにその「心」や「気持ち」を伝えることができるものでもある。ただし、サービスの場合の方が、それらは業者からユーザに伝わりやすいもの、いいかえれば、それが込められていないとユーザはそのことを敏感に察知してしまうものであるといえるだろう。
チュニジア旅行での体験
先日、1週間ほどチュニジアに旅行に行ってきた。コロナの時期は海外にでられなかったので、2020, 21, 22年と自宅謹慎生活を送るか、出かけても国内旅行に限定されていた。それが解禁となったため、年に2回ほどは海外に出かけることにしている。今回は北アフリカのチュニジアである。筆者は発展途上国の場合には、安全や効率を考えてツアーを利用することにしている。ここでは、その途上で経験したサービスについて紹介したい。
サービス業におけるサービス行為
まずツアー会社の添乗員のサービスである。これまでも20回以上、ツアーは利用してきたが、今回のツアーの添乗員ほど印象に残る人はいなかった。まず知識量がすごく、さらに英語を話す現地ガイドとの通訳もほぼ完璧だった。まあ、そのくらいであればさほど珍しいことではないかもしれない。ただ、彼女のサービスのポイントはそこではなかった。それは、参加者の気持ちに寄り添うという、質的な心のサービスにあったのだ。食事時には6名の参加者にまんべんなく話しかけ、散策する時には遅れた参加者に寄り添い、参加者に安心感やうれしさを伝えていたのだ。空き時間にはせっせと報告書類を作成し、必要とあらば「心」や「気持ち」を伝える、この接待はなかなかできるものではないと感じられた。もちろんうっとうしいと感じさせない程度での介入であり、お節介だと感じられるものではなかった。このあたりの匙加減は、技術というよりは人柄に起因するものと感じられた。観光業はサービス業の一つであるから、そうしたサービス行為をするのは当然だという声もあるだろうが、サービスの質という観点から見たときに、彼女の行為は「心」や「気持ち」を感じさせるものだった。
同じくサービス業という業界のなかでのサービス行為の例だが、飛行機の機内搭乗員の話をしよう。機内搭乗員の仕事は、派手なように見えて、実際のところかなり過酷な肉体労働である。食事時には、まず食事を配りながら飲み物を配る。それから飲み物の追加をするためにもう一度往復する。さらにトレイを回収しながら飲み物の追加注文も受ける。都合3往復することになるわけだ。ここで、筆者はペットボトルに入った水を所望した。コップに注がれた水では長時間テーブルに置き続けることが困難なので、サービス時間が終わってからも水を確保するために、ちょっとわがままを言ってペットボトル入りの水を注文したのだ。その搭乗員は、僕の理由説明を聞くと、「無くなってしまうこともあるんですけど、あとで確認してみますね」と回答した。それから何回かのカートの往復があり、20分程が経過しただろうか、もう忘れられてしまったのだろうと考えていた僕のところに「ありました」とペットボトルの水が届けられたのだ。ああ、忘れられていたのではなかった。きっと忙しかったのだろうにエコノミーの乗客のわがままな要求に応えてくれたのだ、とうれしくなった。この搭乗員は日本人だったが、なんか日本人としての「心」や「気持ち」を重んじる姿勢が感じられ、単に業務をこなしているだけの存在ではないんだということが気持ちに響いて、とてもうれしくなった。これも「心」や「気持ち」の存在がサービスの質を高めた例といえる。
サービス業ではないサービス行為
いまの2つ例はサービス業の従業員の行ったサービス行為なので営業活動のひとつともみなせるものであるが、以下に紹介する例は、一般人のサービス行為、平たくいえば親切な行為である。
最初は観光地の狭いティーラウンジでのことだった。地中海を見ながらハーブティーを飲んで休憩をとったあと、バスにもどるために店を出ようとしたのだが、店内は狭く、出口に行くみちのりには長椅子がデンと置かれてしまっていた。筆者が店内にいる間に移動してきたものらしい。足の悪い僕は、その前で、どうやって乗り越えようかとモジモジとしてしまった。すると「Do you need a hand?」と声がして、その長椅子の反対側に座っていた30代くらいの女性が、腕を水平にしてさしだし、手すりのようにしてくれたのだ。ちょっと悪いなと思いつつも、その腕につかまってなんとか長椅子を乗り越えることができた。まあ、それだけのことではあるのだが、ここには「心」や「気持ち」があふれていた。決して日本人の専売特許ではない。人としての思いやりや親切という無償の行為は、困っている時には本当にありがたいものだ。当然、深く感謝してその場を後にした。
もう一つの例は、東京に戻ってきて、新宿駅西口でJRから京王線への連絡通路を上っている時のことだった。JRと京王線の間には、10数段の階段を下って上らないといけない場所がある。今時、これだけ交通量があるのにエスカレータもないのはどういうことだ、といつも憤慨しているのだが、特に重たい荷物のある時はしんどい。下りはガタンガタンと何とかおろしてきたのだが、上りはきつい。一段ずつ上ってはちょっと休み、また一段、というのを繰り返していた。すると上の方から「持ち上げましょうか」と声がした。見ると男子高校生らしき人が手を差し伸べてくれていた。うれしくなってその言葉に甘えることにした。彼はスイッと荷物を持ち上げてくれて最上段に置いてくれた。えっ、僕の荷物ってそんなに軽いものなのか、とちょっと恥ずかしい気持ちもしたが、ともかくうれしかった。礼を述べると、学生はちょっと頭を下げてスタスタと雑踏に消えていった。自分の非力さにがっかりし、加齢という現象の悲しさも実感した出来事だったが、こうした無償の行為の「心」や「気持ち」というものに出会うと、人間っていいもんだなあ、という甘い考えに一瞬浸ってしまうのだ。
心と気持ち
「心」や「気持ち」というものは、ザイサムル達が指摘した無形性、生産と消費の不可分性、多様性、消滅性といったサービスの特性とはちょっと毛色が異なってはいる。それは特性というよりは、サービスの条件とでもいうべきもので、サービスにとっての必要条件というよりは十分条件に近いものかもしれない。しかし、それがサービスの必要条件とみなされるようになり、さらにはサービスの特性の一つとして認識されるようになることがあれば、サービスがもたらす嬉しさの質が向上することにつながるだろう。
参考文献
Zeithaml, V. A., Parasuraman, A., & Berry, L. L. (1985). Problems and strategies in services marketing. Journal of marketing, 49(2), 33-46.