意味性という考え方
意味性とは、製品やサービスなど、その人工物のそもそもの目標が本当に意味あることなのかを問う考え方である。製品開発前にその意味性を的確に見通すためには、適切なユーザ調査と洞察力、それに、思い込みの排除が必要だろう。
僕の提唱している経験工学では、三つの根幹となる特性がある。客観的品質特性と主観的品質特性、そして意味性である。今回は、この意味性について少し説明させていただこう。
意味性(meaningfulness)の「意味」とは、「そりゃ大いに意味のあることだ」とか「そんなことやっても意味ないよ」という日常的使い方そのものである。特別、意味論だとか小難しい話を引っ張りだそうという訳ではない。ただ、考えてみると、その「意味があるか、ないか」という判断は結構むつかしいものである。
何らかの人工物に意味があるかどうかという意味性という概念は、ユーザビリティの下位概念である有効さと関係がある。有効さというのは、目標にちゃんと到達できるかどうかということだが、そもそもの目標が、本当に意味あることなのかどうかを問うのが意味性という考え方なのだ。野蛮な例で恐縮だが、親の敵を殺すことには(それなりの)意味があるといえるが、まちがって第三者を殺してしまうのでは意味がない。敵陣を攻撃することには(それなりの)意味があるが、無人の荒野を攻撃するのでは(演習以外)意味がない。つまり、目標を達成したと言えるのは、その目標に意味がある場合に限られる、ということだ。有効さという概念が重要になってくるのは、そもそもの目標に意味がある場合に限られる、と言っても良い。
たとえば掃除機を取り上げてみよう。全体の重量バランスが良くてボタンの操作性が良くても、また新しさがあってデザインが斬新であっても、吸引力が今ひとつであっては意味がない。ここで重量バランスや操作性は客観的品質特性であり、新奇性やデザインは主観的品質特性である。そして掃除機の場合には吸引力が意味性に関係してくる。吸引力は客観的品質特性である性能の一部といえるが、掃除機の場合には、それが意味性にも関係してくる。つまり、そもそも吸い込まない掃除機なんてあり得ない、ということだ。
また、安物買いの銭失い、という言い方があるが、この銭失いも意味性のことを言っていると考えて良い。コストは客観的品質特性の一つであるが、安いからといって必要のないものを買ってしまうのは、あるいは必要以上に購入してしまうのは無駄遣いということになる。
なお意味性という概念は、常に一般的に成立したりしなかったりするものかというと、必ずしもそうではなく、利用状況やユーザ特性によって意味性があったりなかったりする。たとえば、先日、アイスランドで夏に開催された学会に出かけた。アイスランドとはいえ、夏だから流石に少しは暖かいだろうとコートは持たずに出かけていった。しかし現地に着いてみると天気が悪くて雨交じり、そして気温も相当低かった。日本の自宅にはコートは沢山あるのだから、ここで改めて購入する必要はなかったのだが、コートを着なければ風邪を引いてしまう寒さだった。そういう訳で、日本にいれば購入しなかったコートを購入することになってしまった。この場合、日本にいる場合にはコートを追加購入することには意味が無くても、風邪を引くような状況でそれを防ぐためにコートを購入することには意味があることになる。これは利用状況によって意味性がでてくる例である。ユーザ特性によって意味があったりなかったりするような事例は、補聴器や高齢者用の杖など、多数の事例を思い浮かべることができるだろう。
ところでインタフェース関連の学会で発表されている先進技術には、しばしば意味性の疑わしいものがある。適用事例を見ると、「その場合はそうかもしれないが、それだけなんじゃないの」、「それだったら従来の『これこれ』を使えばいいんじゃないの」「いったい誰がどんな場合にそれを使うの」と思ってしまうことがある。具体的な言及は避けるが、こうした発表が結構多い。デザイン関連の学会等でも同様なことがある。ちなみに、デザイン要素としての色と形は、客観的意味特性や主観的意味特性には関係するが、基本的に意味性とは別である。さらに、製品として発売されてしまっているもののなかにも、意味性の怪しいものがかなりある。結果的に市場、つまりユーザは賢いといえる。そうした意味性の怪しげな人工物はいずれ淘汰され、市場から消え去ってしまうことがほとんどだからだ。
問題は、製品開発をする前に、その意味性を的確に把握することができるかどうかだ。後になってから「やはり」と言うのでは、それこそ後出しジャンケンであって意味がない。(もちろん、事後の反省や分析はそれなりに必要ではあるが)。筆者は、その意味性を見通すためには、適切なユーザ調査と洞察力が必要だと思っている。反対に、思い込みを極力排除することだとも思っている。あえて誤解を招くことを承知で書くと、ユーザ調査というのは、必ずしもエスノグラフィックな調査をすることではない。鋭い感受性でユーザとしての自分を見つめ直すこともユーザ調査の一つだといえる。しかし、ジョブスのような人(彼ですら、幾つもの試行錯誤を繰り返してきたが)を除くと、ほとんどの人は他人を見つめ、他人に学ぶ必要があるだろう。このあたりは、いつか稿を改めて書くことにしたい。