紙やネジの規格とHCDの規格

紙やネジなどの分野では規格による統一は望ましい。一方、HCDなどについては、それも一つの考え方と受け止めて、時には「ただし自分はこう考える」という能動的な姿勢で接することもアリだと思う。

我々が日常使っている紙にA版とB版があり(C版というのもあるそうだが)、アメリカではA4とちょっと異なるレターサイズが使われているということは大抵の人が知っている。このうちA版とB版については、短辺と長辺の比率が1:√2になっている。それは、半分にカットしたときに、元の紙と同じアスペクト比(縦横比)になるようにするためだ。この√2という値は簡単な比例計算で算出することができる。

ウィキペディアなどによると、このアスペクト比は、1786年にドイツのLichtenberg, G.C.が見出したそうで、しかしながら、フランス革命の混乱の中で忘れ去られてしまっていた。それを復活させたのはやはりドイツのPorstmann, W.で、彼はそれを1922年にDIN 476とした。A版についてはA0の面積を1平方メートルとし、B版についてはB0の短辺を1メートルとすることで、その絶対値も決定された。これは1975年にISO 216となったという。ちなみに現在のISO 216は2007年版である。ただし、日本における紙サイズは1940年に仕上がり寸法についてJIS P 0138が制定されたそうだから、それがDINにもとづいたのか、それともISO 216の元になったものがもっと早くに制定されたのかははっきりしない。なお、アメリカで普及しているレターサイズは、A4に近いA版を倍々にしてサイズを規定しているから、アスペクト比は二種類できてしまうことになる。

では、こうした紙の規格はどのような発想によって制定されたのだろう。JISの規格では、原紙寸法(JIS P 0202)と仕上がり寸法(JIS P 0138)が制定されていて、原紙寸法は、印刷時に機械が紙を押さえるための余白や、裁断加工する際のトンボを考慮したもので、裁断された結果が原紙寸法になる。そうした点からすると、紙のアスペクト比は、綺麗な比率から構成されているものの、その結果として裁断時のゴミをなくそうといったエコロジカルな発想にもとづくものではないようである。近代科学社の小山社長に伺ったところ、やはりエコロジカルな発想によるものではなく、現実には多数の裁断片がゴミとなっているそうである。

ではなぜ規格化が行われたのかという点だが、論理的に紙のサイズを「綺麗な形で」規定しておきたいという素朴な理念があったのかもしれないし、書棚への保管やファイリングのために便利にしておきたいという要求があったからかもしれない。ISOやJISの考え方はそれなりに美しい比例形になるが、何も比例形にする必要はない。レターサイズの考え方だって、それなりに首尾一貫しており、規格はひとつに集約される必要はない。

しかし、紙や書籍とファイルや書棚のように、何か「相手」がある場合には規格というものの必要性は増す。たとえばネジの場合も同様だ。パソコンを自作した経験のある方は、ミリネジ(メートルネジ)とインチネジの混在に煩わしさを感じたことがあるだろうが、こうした「相手がある」分野では、世界的な統一は望ましい。ネジの世界はネジ単独ではなく、ネジとネジ穴、あるいは雄ネジと雌ネジという二つのものの関係で成立するものだからだ。(砥石の専門情報サイトの「ねじの規格と寸法」を参考にした)。

こうしたモノ、特に相手があるモノの規格については、それなりの必要性が容易に理解できるのだが、さて、ユーザビリティなどの概念を元にした規格については、同じく規格といっても、その必要性や性格や意義はかなり異なっているといえる。たとえば哲学の世界のように、百家が争鳴しているような世界では辞書的な定義はあるにせよ規格はない。だから実存とか構造とかモダンとかいう概念はそれぞれの提唱者の書籍を読み、そこからその意味をくみ取る必要がある。辞書があると言っても、同一の定義を載せている辞書はひとつとして無い。心理学でも社会学でも、およそ人文科学や社会科学の分野は規格とは無縁だった。それは産業との関連性が低かったからだといえよう。

HCDやユーザビリティの世界は産業と結びついているため、規格の制定が望まれた訳で、たとえばISO 9241シリーズは、オフィスワークの環境を適切なものにするために規格化を進め、最適な作業環境を作るように努力をしてきたのである。ただ、「相手のあるモノの世界の規格」とは異なり、規格がないために混乱が生じるレベルはそれよりは低い。もちろんオフィス照明の人間工学的規格などは、人間という「相手」があるので、モノの規格に近い性格がある。

ともかく、この分野では、何か拠り所があった方がいいし、その拠り所を規格として整備しておいた方が仕事の目標設定がやりやすい、といったような事情が規格化を推進する原動力となっていたように思う。その意味では、HCDなどの規格については、規格として制定されたからといってそれを厳密に守らねばという受動的な姿勢ではなく、「それも一つの考え方だな」という形で受け止めて、時には「ただし自分はこう考える」という能動的な姿勢で接することもアリだと思う。僕は、HCDやユーザビリティに関するISO規格はある時点での関係者の考え方のいちおうの集約点にすぎないと考えている。

Original image by: LawPrieR

公開:2013年4月10日
著者:黒須教授

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