シンボルとしてのHCD

HCDという言葉の認知のされ方・使われ方について、企業関係者へのインタビュー調査結果を基に論じたい。HCDがどの程度、現場で実践されているのか、ということでもある。

  • 黒須教授
  • 2022年1月12日

HCDはどの程度知られているのだろう

先に紹介した企業関係者12名へのインタビュー調査は、もともとHCDの講習会などで知り合った方々を対象にして行った。したがって当然のことながら調査対象者の全員がHCDという言葉については知っていた。

しかし、そもそもHCDという概念が、いやキーワードレベルでもいいのだが、世間一般のどの程度の人々に知られているか、あるいは聞いたことがあると認知されているかは別問題であり、よくわかっていない。デザインやプランニング関係者であれば、おそらく大半の人達が耳にしたことくらいはあるだろうが、エンジニアとなるとむしろ聞いたことがある人は少数派になるのではないだろうか。

さて、今回はHCDという言葉のこうした認知度ではなく、認知のされ方、ないしは使われ方について論じたい。HCDがどの程度、現場において実践されているのだろうか、ということでもある。

ISO規格の理解と実践のされ方

今回の調査では、HCDがISO規格によって規定されていることは12名全員が知っていた。しかし、規格の本文を読んだという人はむしろ少数派であったし、全体を通して読んだという人はさらに少数であった。当然の帰結として、ISOの規格の通りにすべてのデザイン活動を実践している人は皆無であった。規格に書いてあることのうち、実践できる部分は実践していても、困難さがあったり手間やコストがかかったりする部分については省略していた。ISO 13407:1999が登場した当時に話題になった認証という観点からすれば、もし認証をうけようとしてもすべてのケースが認証にパスしないであろう。

しかし、皆さんが口にそろえて言うのは「規格があって良かった」「規格があることによってふわっとしたイメージがなくなり、きっちりしたイメージになった」ということだった。その点がデザイン思考への態度とは異なっていた。デザイン思考はきちんと文書化されておらず、デザイン思考をやっているといえばやっていることになってしまうというあいまいさがある、ということだった。この点は、ISO規格として制定されていることのメリットといえるのだろう。

ではHCDはどうなのか

HCDをISO規格に規定されているとおりに実践しているケースはなかったのだが、それでは実態はどうなのだろう。「HCDをやっている」という表現をする背後にはISO規格によって裏付けられているという安心感があり、たとえ規格どおりにやっておらず、部分的に取り入れているだけにしても、HCDという言葉をつかえる満足感のようなものが感じられているようだった。

またHCDには「人間を中心に据えている」というニュアンスがあり、倫理的に「良いこと、正しいことをしている」という誇らしげな気持ちになれる利点もあるようだった。裏をかえせば、「人間を中心に据えないデザインなんてとんでもないではないか」という、いわば当然の気持ちがあったのだろう。

シンボルとしてのHCD

このように考えてくると、実際にはHCDは厳密にも完全にも行われていない…にも関わらず、それはユーザのことを考えてデザイン業務を遂行しているのだ、という自覚を与えてくれるものであり、自分たちの仕事を表現するのにとても具合のよいものである、ということになろう。いわばHCDは、そうした「望ましいデザイン」を意味するシンボルであり、デザイン関係者に気持ちよさを与えてくれる特効薬のようなものということができるだろう。

もちろん、デザイン関係者が気持ちよく仕事ができ、自分たちの仕事に誇りを持てることは良いことである。ただ、言葉というものは常に独り歩きをする可能性を持っている。その意味で、ISO規格という「原典」があることは素晴らしいことである…たとえ規格内部に不適切な表現やあいまいさが残っているにしても、だ。ただ、原典も使わなければただの紙切れにすぎない。時々は原典を読み直して、いや、もちろん批判的に読み直すので構わないが、改めて人間のためのデザインについて考えることが必要だろう。

ただし、HCDに長いこと関わってきた自分からすると、そうしたポジティブな受け止め方は結構なのだけれど、デザインは途中のプロセスが問題なのではなく、結果としてのUXがどうなるかが課題である。UXを貧弱なものにする大きな原因のひとつがユーザビリティの低さである。そして…いまだにユーザビリティの低い製品やサービスは市場に満ち溢れている。つまり、デザイン関係者がHCDという言葉に陶酔していてはいけない状況がずっと続いている、ということである。もちろん、現在の状態の良し悪しよりも、そこからどのような方向に向かっていこうとするかという志向性の良し悪しが重要である。その時の対応に、人間中心という言葉を本当に理解しているかどうかが反映されることになるだろう。