規格が現実を変える力

僕は人々が満足感を感じて生活できる世の中にしたいと思っている。ISO 13407を切っ掛けに規格の世界に足を踏み入れた僕だが、いまの規格に果たして社会的な影響力があるのかと疑問に思う。

ISOの規格をしっかり学ぼうとしている方には申し訳ないが、最近、どうもISO規格の策定作業に熱意を持てなくなっている。たしかにISO 13407はそれなりの影響力があったと思うし、その影響力を強めるように僕なりの努力もしてきたつもりだ。しかし、その後に続いた規格や文書はどうだったろう。関係者は努力して規格や文書として制定したきたが、その努力によって何が変わっただろう、と考えてしまうのだ。

ISO 13407からISO 9241-210への改訂作業が行われ、CIFがISOになり、20282が整備されたけれど、どうもあまり関心が高まらない。これが出来上がって、世の中の何がどう変わるのだろう、とつい考えてしまう。

そもそもISO 13407だって、そのまま放置しておけばあれだけの影響力は持たなかったのではないかと思う。もちろん1980年代に人間中心設計やユーザー中心設計という考え方ができたこと、家電機器やAV機器はすでに成熟していたし情報機器も成熟期に入りつつあって開発の焦点をどうするかという模索期にあったこと、ISO 9001の経験から規格自体そして規格にもとづいた非関税障壁の可能性に企業が敏感であったことなど、ISO 13407が注目される条件はいろいろと揃っていた。そこに登場したわけだから、国内の規格関係者の努力もあって影響力を行使するに至ったと考えられる。

僕はISO 13407を切っ掛けとして規格の世界に足を踏み入れたが、段々とその世界の不思議さを感じるようになった。一つは、考えてみれば当然なのだが、規格にはエディタという責任者がいて、その成立に責任を持っているという点だ。素朴に考えると委員会があって委員がいろいろなことを言い合い、委員長は全体の意見の調整やとりまとめをやっているように思っていたのだが、実際にはエディタは調整役というよりは、その個性をかなり色濃く反映していたことに驚いた。もっとも、そうでもしなければ、全体をひとつのトーンでまとめあげることは難しいだろうとは思う。実際、エディタが調整役になりきったために、全くまとまりがなくなってしまうケースもあった。しかし、その個性が強いために、委員会での意見集約が強引だと思われる時もあった。純粋で公平で中立的と思われがちな規格にこれほどの属人性があるとは知らなかった。適切な言葉とはいえないが、エディタの存在は一種の必要悪ともいえるのだった。

また各国から参加している委員が自国の意見を集約し、代表として参加しているのかと思っていたが、実際にはそうではなかった。TC159のSC4/WG6では、国内意見を調整し、ひとつにまとめてから委員会に意見書を送ったりしていたが、同じ国から複数の委員が参加する場合もあり、さらに同じ国でありながらお互いの意見が全く異なることもあった。要するに彼らは自国代表ではなく、その分野の専門家として参加しているのだった。もちろん投票の段階では国ごとに意見をまとめるが、それ以前の委員会活動は国ごとではなく個人をベースにしたものなのだった。

そのように個人の意見が重視される委員会だから、そこに参加しないと意味がないことになる。いくらきちんとした意見書を書いて委員会に送っても、その場に参加していないと、参考までに読んでくれてますね、という感じで議事はどんどん進行してしまう。その意見書に対して解釈を云々したりして20分も30分もかけることなどなかった。

このあたり、これまでの日本サイドの取り組み方では残念ながら影響力を持てないものだった。国内委員会をきちんとやり、意見集約を行い、それを文書にして本委員会に送れば良いと思っているところがあったからだ。しかし、それではほとんどまったく規格の策定には影響力を持てないのだ。もともと日本人は外国から入ってきたものを咀嚼して身につけようとする傾向が強いが、規格でも積極的に敵陣に切り込んで、個人として自説をまくし立てるという姿勢は少ない傾向があった。もちろん、ただ暴れればいいというわけではない。本当に自説を通したければ、自分でエディタになるのが理想的だ。いいかえれば専門家としての参加は、あくまでも協力者にすぎないのだ。

しかし、もっと根本的な課題がある。それは何のための規格なのか、という点だ。まず、広く学会全体でみると、各専門領域のなかで規格に関して熱心な人と熱心ではない人とに、かなりはっきり分かれる。そして熱心な人たちに共通しているのは、規格作りには熱心だが、著書を出したり学会発表をする人がとても少ないということだ。多くの委員にとっては委員会が彼らの閉じた世界になっているようにも見える。しかしこれはその活動が自己満足に陥ってしまう危険性をはらんでいる。自己満足といわずとも、小さな世界での閉じた規格になってしまう可能性がある。その世界の中で体系化を図り、詳細な記述を行っていても、それが外の世界に影響力を行使できなければ意味がないのではないか。僕のモチベーションの低下はこうした疑念に由来するのだった。

さらに、ISO 13407が制定された1990年代と現在とを比較すると、技術水準も社会情勢も大きく変化してきている。インターネットのこれほどの普及は当時は予想されていなかったし、開発手法ではアジャイルが登場して大きな変化があった。また現在は、1990年代には思いつかなかったクラウドという環境が一般化しつつある。設計開発の手法もいろいろと提案され、最近ではビジネスエスノグラフィが注目されるようになってきている。そしてユーザビリティに関連してUXという概念が普及している。特にUXについては、ようやくISO 9241-210で一応の定義が与えられるまで、ISO規格としては全く言及してこなかったため、それまでに多数の定義が存在し、訳が分からないような状況にすらなっている。このように、世の中はどんどんと進化してきている。その結果、規格が世の中を先導するのではなく、規格が世の中の後を追って、その意見集約をしているような面が強くなってきている。

僕自身は世の中を変えたいと思っている。人々が満足感を感じて生活できる世の中にしたいと思っている。幾ら良い規格があっても、それが社会的に影響力を持てなければ意味がない。いまの規格に果たしてその力があるのだろうか。ある面では、世の中自体が「自信をもって」しまったために規格のことを顧みなくなったともいえる。これでいいんだ、これでちゃんと売れているじゃないか、という訳だ。しかし、そうした企業の利益中心主義が復活してくることを防ぐためには何をどうすればいいのだろう。そこを考えなければいけない。影響力が大きくはない規格を、しかしながらきちんきちんと生真面目に作っていればいいのだろうか。

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公開:2012年12月13日
著者:黒須教授

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