大学というシステムの設計と学生満足度

15回という授業回数の厳格な確保が、本当にその質の保証や学生満足度の向上につながっているのか疑問である。教育システムの設計でも製品やサービスと同様にHCDの考え方を適用し、ユーザの声を確認する評価が必要である。

  • 黒須教授
  • 2014年8月25日

教育の質の保証

大学における高等教育は、交通システムや銀行システムなどと同様、システムとしての人工物の一つである。学生満足度(student satisfaction)という概念があるが、この大学という人工物の一次ユーザ(primary user)は学生であり、学生がこの教育システムに満足できるかどうかが重要なポイントとなる。また、もともと教育に関する設計を行うインストラクショナルデザイン(教育の設計)は人間中心設計と類似のサイクルを経るようになっていて、教育の問題はHCDの観点からも重要な問題といえる。

学生の満足度には多くの側面が関連してくる。卒業してから「良いところ」に就職できるのか、校舎や施設などの質やその運用がきちんとしているのかどうか、交通の便はどうか、質が良くてやる気のある教員が揃っているのか、各種費用を含めて経費的にはどれくらいかかるのか、そもそも自分の将来に有用なことを学び身につけることができるのか、等々である。こうした中で、教育の質については大学側も文科省も大変気にかけているので、「質の保証」というテーマでこれまでも頻繁に議論されてきている。

この質保証という文脈のなかから、授業回数をきちんとしよう、という考え方が出てきた。以前から大学の授業回数は15回を一つのまとまりとするようになっていた。ただ、文科省(中教審)の指導に厳密に従おうとする大学当局の姿勢の結果、最近では全部で15回を必ずやらねばならないと解釈されるようになり、授業が国民の祝日に重なった場合、その日を授業日としてしまうケースが多々発生している。今回は大学教育システムについて、この問題を取り上げてみたい。

授業回数の厳格な確保が、本当に質の保証や満足度の向上につながるのか

この考え方は、勉強をしたい学生にきちんとした教育を提供しようという考え方から来ている。もちろん、受験勉強から解放されて遊びたい盛りの学生だから、勉強だけをやりたい訳ではなかろうが、少なくとも教育を提供する立場からは、十分なものを提供しておこう、というわけである。しかし、国民の祝日をつぶしても15回という回数を確保しようというやり方が適切なものかどうかについては、かなり異論もあるようだ。まず学生本人にとっては、国民の祝日で連休となった場合には特に、せっかく旅行や帰省をしたいと思ったのに授業にでなければならないため期間を短縮したり計画を中止しなければならないといった不満があるし、同様の不満は教員やその家族にもあると思われる。このあたり、現在のやり方が本当に質の保証や学生満足度の向上につながっているのかという疑問がある。

そもそも国民の祝日については、昭和23年に制定された法律によって「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」「「国民の祝日」は、休日とする。」と定められており、現在の大学のやっていることはこの趣旨を破壊している、さらにいえばこの法律に違反しているともいえる。また15回の授業が終わってから定期試験を実施するようにするため、前期の授業は、従来なら7月で終わっていたものが、8月にまでずれ込むケースも発生している。こうなると夏休みも短くなり、学生は不満に思っていることも多いようである。

ちなみに、大学設置基準では、「毎週1時間15週の講義をもって1単位とする」となっており、教室外での準備を2時間として、授業の1時間と併せ、1回を3時間、15回で45時間分の学習を行うことが1単位の履修時間としている。実際には45分で1時間とみなし、90分で2単位分の授業になるようにしている。しかし、教室外の準備をまじめにやる学生がいたとしたら、毎日何コマかの授業をとっていると予習復習は4時間のウン倍になり、通学時間と授業時間をあわせたらそれだけでサークル活動をやるどころの話ではなくなってしまう。どうも、そもそもこのあたりから、実態を無視した役人と政治家の勝手な思い込みがあったように思う。一次ユーザである学生の立場や気持ちを無視しており、学生中心設計ではなく、大学システム中心設計になっているともいえる。

そこで国民の祝日を無視し、授業期間をのばすことになった点について再考したいのだが、中教審の第23回大学教育部会の資料(編注: PDFファイル)を見ると、現状が形式的であり、学修の実質化につながっているか疑問であるという反省も見られるが、依然として「『講義であれば1単位当たり最低でも15時間の確保が必要とされる。これには定期試験の期間を含めてはならない』とする平成20年中教審答申で示した単位についての考え方を変更するものではない。」となっており、まだまだ中教審関係者の頭は固いようである。

さらに考えてみると、授業の回数というものが実質的に当該教科の内容を教えるのに必要十分な時間なのか、という本質的な疑問がある。15回という枠があるから、それに収まるように教科内容を揃えている、というのが実態ではなかろうか。仮に枠が4回であれば、それに収まるように内容を揃えるだろうし、30回であれば、それに収まるように内容を揃えるだろう。このように、「質」の保証を時間数という「量」で担保しようとする中教審と大学の考え方は根本的に間違っていると思う。

このように、質の保証を量で確保しようとして考えられた厳格な15回実施という制度は中教審の満足度にはつながるだろうが、学生の満足度につながっているかという点で大いに怪しいものである。最初に書いたインストラクショナルデザインの考え方からすると、HCDの場合と同様に、設計したものは評価しなければならないとされている。その評価が、一次ユーザである学生の立場からちゃんとなされたといえるのかについての疑問がある。ちゃんと調査をしていたら、以前のような「最低授業回数13回」で良かった、ということになるかもしれない。そうしたら評価にもとづいた再設計として13回は最低実施し、国民の祝日はできるだけ休日にするという制度に修正することも必要だろう。

人工物の設計には、ユーザを巻き込んだ評価が必要

教育システムという人工物の設計においても、製品やサービスと同様、インストラクショナルデザインすなわちHCDの考え方をきちんと適用し、システムをデザインして実施するだけでなく、ユーザ、特に一次ユーザの声を確認するための評価を行うことが必要である。その評価は簡単なアンケート調査でも良いが、エスノグラフィックな調査を併用して深掘りを行うとさらに良い。ただ、大学の事務方はそうした調査になれていないことが多いので、教員に委嘱して実施することにはなるだろう。ともかく大学教育の一次ユーザは学生であるという点をきちんと理解することが、教育システムのUX向上にもつながる。同様の考え方は、他のシステム、たとえば交通システムや都市システム、金融システムなどについてもあてはまる。やはりポイントは、一次ユーザは誰なのかを確認することであり、一次ユーザを中心に据え、同時に二次ユーザや間接ユーザのことも考えつつシステムを設計することである。それがシステムのUXを向上させるポイントである。