従来型メディアの終焉(新聞、雑誌、書籍、テレビ放送網)

大部分の現代のメディア形態は死に絶えるだろう。そして5年から10年のうちに、統合化されたウェブメディアがこれに取って代わる。

従来のメディアは生き残れない。なぜなら、現在のメディアの姿は、その基底にあるハードウェア技術の産物だからだ。ユーザ体験がハードウェアの制約を受けている限り、いったんその制約がなくなれば、もっとよいものが出てくることは請け合いだ。

従来のメディアはなぜバラバラだったのか? 以下のいずれかを選択するしかなかったのはどうしてなのだろう?

  • ある出来事の動くイメージを見るならテレビを
  • くわしい内容を読むなら新聞を
  • 背景となる問題点についての内省的な分析を読むなら雑誌を

どうしてこの3つをひとつのメディアにできないのだろうか? 百科事典に収められた過去の情報、地図、関係者のバイオグラフィ、関係国の過去の姿を生き生きと描写した歴史小説、その他の数多くの文献と、今の報道内容とをリンクできないのはなぜなんだろう?

答えは明らかだ。映画の一部を印刷物で上映するわけにはいかないし、テレビで長大な記事を放映するわけにもいかない。新聞社だって、内省的な記事を書くのに必要な調査が済むまで何週間も待ってはいられない。くわしい背景知識が必要な人のために、定期購読者全員に関係書籍を何冊か送るとなると、莫大なお金がかかるだろう。

言い換えると、現状のハードウェアは、真のメディア統合を果たす妨げになっているのだ。とはいえ、今までにもいくつかの試みはあった。新聞では日曜版に雑誌がついていることが多いし、中には、昨日今日のニュースという枠を超えて、長期間の調査と執筆時間をかけたくわしい背景記事を書くために、レポーターを任命しているところもある。

帯域幅の拡大で統合メディアが可能に

インターネットにもそれなりのハードウェア的制約がある。統合メディアサービスの妨げになっているのは、以下のような制約である。

  • 帯域幅が狭いとビデオ利用は不可能となり、画像やアニメーション、その他のテキスト以外の形式のデータ利用に制約を受ける。また、反応時間が遅いとサービスの深みと豊かさが減少する。なぜなら、反応時間が1秒以下にならない限り、ユーザはハイパーテキストリンクを自由に追いかけてくれないからだ。
  • コンピュータモニタが低解像度だと、画面上の文字を読むのは印刷物に比べて25%も遅くなる。このため、ページに掲載する単語数を少なくする必要が生じる。
  • ウェブブラウザのデザインが貧弱だったり、検索エンジンのデザインがうまくできていなかったりすると、ウェブをナビゲートして情報やサービスを見つけるユーザの能力が減少する。(この最後の項目はソフトウェア上の問題であって、ハードウェア上の問題ではない。だが、コンテンツ提供者の側から見れば、先進的なインターネットサービスを構築するためのインフラがまだ整っていないというのが、すべての元凶なのである)

この先5~10年ほどの間に、こうした問題はなくなっているだろう。ユーザのインターネット帯域幅は、毎年50%高速になっている。5年以内に、ハイエンドユーザは、ウェブを自由にナビゲートするのに必要な1秒以下の反応時間という要求を満たせるようになるだろう。10年のうちには、すべてのユーザに十分な帯域幅が行き渡るだろう。同じく10年以内に、インターネットを通じて十分な品質のビデオをストリームできるようにもなるはずだ(現状の切手サイズのビデオ映像では、ほとんど使いものにならない)。

300dpiのグラフィック表示ができる高解像度モニタが実在していて、これは紙と同等の可読性を備えている。モニタの価格低下は、ムーアの法則のようにはいかないだろう。だが、5年以内には、ハイエンドユーザに、よい画面(おそらく200dpi)が行き渡るようになると私は予測している。すべてのユーザがよい画面を手に入れるのも、10年以内のことだろう。

つまり、2008年頃には、すべてのコンピュータユーザが、印刷されたページを読むよりもウェブ利用を選ぶようになっているだろうということだ。ハイエンドユーザなら、2003年頃には、この移行を済ませてしまうかもしれない。インターネットが昔のメディアと同じくらい楽しく使えるようになれば、勝利は目に見えている。新しいメディアがもたらしてくれるインタラクションと統合というメリットを生かしたサービスを提供できれば、の話だが。

高品質なビデオをインターネットを通じて配布するということは、単にテレビネットワークがオンラインになるという話ではない。『スタートレック』と夜のニュースが、同じチャンネル、同じ企業から配信されなければならないという決まりはない。今そうなっているのは、単にこの両番組が同じ放送周波数を共有せざるを得ない、というだけの話である。ニュースのビデオクリップとそれに対応するテキスト報道とを統合し、さらにこの両者から、背景分析や教育的リソースへのリンクを設けておく方が、ずっといいソリューションになるだろう。

このような統合サービスで用いられるビデオクリップは、ごく短いものが主体になるだろう。ユーザは、インタラクションの主導権を握り、情報摂取のペースを自分で設定したいと思うものだからだ。現在のCD-ROM版百科事典が、よいモデルになるだろう。ウェブよりも帯域幅は大きいにも関わらず、CD-ROMでは、通常ビデオクリップの上限を30秒に制限している。長すぎるとユーザは飽きてしまい、インタラクションに戻りたくなるのだ。また、ビデオは、サービスの他の部分と結びつけておかなくてはならないし、テキスト、画像データベース、ユーザが制御するコンピュータアニメーション、その他数多くのものと統合しておく必要もある。「マルチメディア」とは多様なデータ形式を意味する言葉だ。単に、リニアなテレビをコンピュータ画面にのせればいいというものではない。

短い、統合化されたビデオクリップに加えて、インターネット上では、もっと長いビデオも利用できるようになるだろう。映画や1時間番組は、あいかわらずフィクション分野で高い人気を保っているはずだ。ストーリーテリングには、リニアな形式がもっとも適していることが多いからだ。ユーザは責任を逃れて、作者が考えたとおりにプロットをただ吸収するだけでいい。こういったリニアな作品も、インターネット経由で配布されるようになるだろう。あなたの受け入れ体制が8:50に整っているのなら、番組が始まる9:00まで待っている必要はない。ビデオオンデマンドには、今よりもっと優れたユーザインターフェイスが必要だ(ゲーム番組を見るために、わざわざマニュアルを読む人はいない)。しかし、インターネットがテレビネットワークに置き換わるくらいの速度を出せるようになるには、少なくともあと5年ほどかかる。それまでに、デザインを練っておく時間はあるわけだ。

統合化されたビデオの実現には帯域幅の拡大を待たなければならないが、テキストのみ(あるいはテキスト+写真)の出版形態の統合は今すぐにも可能である。サービス業者は、最新のニュース、背景分析、過去の情報のそれぞれからのスペクトルを重ねあわせ、統合することができる。Wall Street Journalでは、企業ハンドブックからの情報を過去記事の検索機能と統合しているため、それぞれの機能を単独で提供するよりも、あるいは、ある1日だけのニュースを提供するよりも、ずっと価値のあるオンラインサービスになっている。

メディアの死は人々の死にあらず

従来のメディア形式は死に絶えると予想している私ではあるが、おおむね、これらのメディアで働く人々には輝かしい未来が開けていると考えている。ライター、編集者、写真家、カメラマン、ビデオプロデューサ、スクリーン上のタレントや俳優、その他大勢の人々に対する需要が絶えることはないだろう。実際、インタラクティブなコンテンツが人々の日常生活で重要な役割を果たすようになれば、才能あるメディアスペシャリストへの需要はさらに高まるかもしれない。私は、その可能性は非常に高いと信じている。インタラクティブメディアは、受動的なメディアよりも魅力が大きいからだ。

現在メディアで働いている人々は、インタラクティブ時代に向けて自身のスキルを修正する必要があるだろう。例えば、人々はオンラインでは違った読み方をするので、ライターは執筆スタイルを変える必要がある。同様に、写真家も、ユーザがインタラクションすること(例えば、説明を読むためにクリックしたり)を前提にした撮影手法を学ぶべきだろう。

現在のメディア企業に関しては、そこで働くスタッフの未来に比べると、あまり楽観的になれない。原理上、メディア企業は、インタラクティブ時代に向けて、現在のスタッフや、スキルや、ブランドや、財政的資源や、観客との関係をテコ入れすることができるはずだ。だが実際は、ほとんどの企業が従来のメディア形態にこだわっていて、それを捨てる覚悟ができていない。新聞社の中で、現在、金のなる木である印刷物製品が、この先10年と持たないという覚悟で取り組んでいる企業はどれくらいあるだろう? 印刷した記事やニュース配信を単に再利用するではなく、単体のオンラインサービスとして自立させるために、ウェブサイトに資金を注入している企業がどれほどあるだろう?

1998年8月23日