身体直接性とユーザエクスペリエンス

現代の生活はバーチャルな情報に満ちているが、忘れてならないのは、バーチャルな世界はどれだけリアルに感じられても結局のところ身体直接性は低いということだ。そして、身体直接性というものは、現実世界における自己の定位、つまり、自分が世界のなかでどこにいてどのようにあるのかという認識を持つ上でとても重要なものであると思える。

大昔から人間が認識している世界を構成するものは情報だった。原始時代には直接的な感覚的情報の占める比率が高く、間接的な情報は他人から聞いた話と、アルタミラのような壁画に表現された視覚的情報程度だったことだろう。

文字が発明されて粘土板や皮革をつかったコミュニケーションが発達することで間接的な世界は大きく広がった。さらに紙という安価なメディアが発明されて文字による表現はさらに積極的に利用されることになった。また絵画技法が進展することによって、遠隔地の情景や想像上の情景が表現されることで、人々の視覚的イメージの世界も拡大した。ただし、まだこの時点では、人々は、言葉による表現が作者の視点を表現しているに過ぎず、対象となる事象全体については不完全な表現でしかないということ、絵画による表現が任意の視点と特定の視野を切り取っている意味で不完全な表現であるということを、あまり強く意識してはいなかったのではないか、と想像する。もちろん、表現する場面では言葉を選ぶとか画面構成を考えるという形で、何をそこに盛り込むかを意識していたとは思うが、そうした積極的側面ではなく、そこから切り落とされてしまった現実の残りの部分について思いを馳せることは少なかったのではないかと思う。いいかえれば、その必要がないほど、当時の人々の認識世界は実身体が接触するモノと情報に満ちていたのだろう。つまり、当時の人々にとって文字や絵画という表現は、人々の認識世界における限定された情報表現にすぎず、人々はその大半の認識生活を身体に直接触れる世界との交流によって行っていた。いいかえれば身体直接性の高い生活を行っていたといえる。

写真や電信や電話、さらにはラジオやテレビ、レコード、テープレコーダなどの技術が発明され、製品が出回ることにより、人々の認識世界において、身体が直接接触していない事柄に関する情報が身の回りに溢れることになった。ある意味では、文字や絵画からこれらのメディアに至る歴史は、身体直接性から広義のバーチャルリアリティへの展開の歴史と見ることができるだろう。しかし、人々は身体直接的な現実とバーチャルな現実との違いをあまり意識することがないまま、その世界に没入するようになってきた。さらにコンピュータ技術やコミュニケーション技術の発達によって、人々は生活の中で機器を介して情報を受ける比率が高くなり、それらの機器に接触している時間の比率も高くなった。いいかえれば、広義のバーチャリティの比率が高くなり、身体直接性が相対的に低下してきたといえる。

現代の生活は、そのようなバーチャルな情報に満ちているが、忘れてならないのは、バーチャルな世界はどれだけリアルに感じられても結局のところ身体直接性は低いということだ。そして、身体直接性というものは、現実世界における自己の定位、つまり、自分が世界のなかでどこにいてどのようにあるのかという認識を持つ上でとても重要なものであると思える。バーチャルな世界は、特定の時間、特定の視点、特定の視野から描かれたものだ。したがって、そこには情報の編集が、そして演出が行われている、という認識を持つことが必要だ。身体直接性のある情報がもたらすリアリティは、バーチャルな情報では補完しきれないものを含んでいるのであり、身体直接的な経験を豊かに持っていることは、適切な認識世界を構築するために重要である。

たとえば、新宿や渋谷にまだ行ったことのない人には、映像のなかの光景が新宿や渋谷のイメージとして強調され、記憶のなかに定着されてしまう。同じような意味で、経済学や料理や法律などの専門家にとっては、ウィキペディアなどインターネットから得られる情報は、その背景知識にもとづいて適切に解釈されるだろうが、非専門家にとってはそこに書いてある情報がそのすべてである。カーナビの画面に表示される情報がいくらリアルになろうと、それは地元の人の経験している世界とは異質なものであり、加工された情報の世界である。ニュースやドキュメンタリー番組についても同じことがいえる。

特にインターネットから得られる情報は、人々の認知的世界を拡大しているものの、完全にバーチャルなものであるということがしばしば忘れられている。SNSで知り合った人に勝手なイメージを描いてしまい、オフ会で逢ってみたら予想外のことになってしまうとか、ECサイトで購入したものが予想と違っていたといったことが起きる。これはまだリアルな世界での検証ができた場合だが、リアルな検証の機会がないままに、ネットの世界だけでものごとが進んでいってしまうことがある。個人的経験では、メールやSkypeでの議論は、既に対面で良く知っている人同士ではそれなりにうまく行くが、初対面の人との対話には余程注意しなければ話がずれてしまうことがおきる。質問サイトでお礼の仕方がうまくできないと回答者を怒らせてしまうことがあるし、2ちゃんねるでの話し合いはしばしば荒んだ雰囲気になってしまう。これらは身体直接的に対面で逢ってみれば、もっと和気藹々としたものになる可能性がある。オンラインコミュニティという言葉はあたりまえのことになってしまったが、身体直接性がないコミュニティの今後には、とても危惧を覚えている。インターネットの匿名性についてはしばしば議論されるが、特別な場合をのぞき、できるだけ身体直接性を基本にして対処していかなければならないと思う。オンラインのユーザエクスペリエンスは、そのようにしなければポジティブなものになっていかないだろうから。

技術はどんどん進化し、そのバーチャル性を高める方向に進化している。そしてメディアに接触する時間が増えれば増えるほど、人々は身体直接的な経験を持つ時間がなくなり、身体直接性のないバーチャルな情報の世界に深くひたり、それなりの形で情報を把握し、それなりの形で世界を拡大し、その結果を自分の持っている乏しい身体直接的な世界に連続させてしまう。そして、それを自分の認識世界としてしまう。たとえば臨場感通信という技術は、メディアによって与えられる情報がリアルであればあるほど良いだろうという楽観主義にもとづいているが、果たして、身体直接性のないバーチャルなリアリティが、身体直接性と区別のつかなくなるような形での融合が望ましいユーザーエクスペリエンスなのかどうかを考える必要がある。技術の発展を素朴に楽しみ喜んでしまう姿勢は、ユーザビリティ関係者としては排除しておく必要があるだろう。

公開: 2010年10月26日
著者: 黒須教授

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