おもてなしとCCDやCXDの関係
もてなしのようなサービスにおいて効率が重視されない場合には、ちょっとした驚きや当惑は、適切な情報提供やガイダンスを伴っていれば、むしろポジティブな経験となるだろう。このあたりをあらかじめ計算し準備しておくなら、最高水準のCCDやCXDになるだろう。
お・も・て・な・し
2013年というともう随分前のことになるのだが、IOC総会での滝川クリステルのプレゼンによって「おもてなし」という言葉が一躍注目を集めた。滝川は、
“We will offer you a unique welcome. In Japanese, I can describe it in one unique word: o-mo-te-na-shi. It means a spirit of selfless hospitality… One that dates back to our ancestors… Yet is ingrained in Japan’s ultra-modern culture. ‘Omotenashi’ explains why Japanese people take care of each other… and our guests… so well.”
と語ったそうだ。このselfless hospitalityという英語が適切であったかどうかについては、ネットに色々な意見がでているが、いずれにせよ、招致委員会サイドには「おもてなし」という日本語の語感を出して日本らしさをアピールしたいという意図があったのだろう。そして、こうした英語に訳しにくい日本語を押し出した背景には、日本文化というのはそんなすぐに理解できるものではないんだよという形で、多少謎めいたオリエンタリズムを演出したいという計算もあったことだろう。滝川の両手を合わせたジェスチャーにもその意図は窺える。
もてなしと顧客中心設計
滝川のプレゼンはともかくとして、ここではもてなすという行為とCCDやCXDとの関係を考えてみたい。CCDとCXDは、それぞれUCD (User Centred Design)とUXD (User Experience Design)のU(User)をC(Customer)に置き換えた造語である。特にサービスの場合、それを使うというよりは、それを受けると言った方が適切かと思うので、ユーザ(user)を顧客(customer)という言葉に置き換えてみた。
もてなすという行為には幾つかのレベルを区別することができる。まず基準以下のものとしては客を客とも思わぬような扱いをして、情報提供もせず、礼も述べないようなレベルがある。とんでもないレベルとも思えるが、たまにこうした店があったりする。ただ、これに近い例としては、駅のホームにある売店がある。そこには次から次に客が来て、いちいち礼を述べたりする暇がない。それでも、その売店に慣れている客は、細かいことを聞かないし礼を言われなくても不快には思わない。効率第一というスタンスは、そもそも客側がそれを求めているからだ、ともいえる。金を払って商品を受け取ればそれでいい、そういう場面である。
その次のレベルとしては、サービス提供側のルールに客が従うというものである。ラーメン屋や寿司屋などにもそうした店があると聞くし、高級料亭や高級レストランでは、一見丁重な対応をしているようでいて、その場のルールを客が理解していることを前提にしており、理解していない客は怒られたり馬鹿にされてしまう。これはまだCCDやCXDとは言えないし、約束事を知っている客はそれなりの優越感を抱くこともできるだろうが、一般的にいえば客は十分な満足を感じられないだろう。
もう少し上のレベルとして、客の要望を察知して、それに対応しようとするものがある。一般にCCDとかCXDの初期水準とみなされるのはこのあたりであろう。瞬時に察知するのは難しいからと、事前にリサーチをしておき、対応の仕方をマニュアル化しているのは、たいていのファミレスなどで行っていることだ。ただ、マニュアル的な対応は、ルーチン化された場面では有効でも、そこから外れた事態においては馬脚を現してしまうことになりやすい。
そこで、CCDやCXDの上位の水準としては、店員のマインド教育に力を入れる。客がどのような要望をもっているかを可能な限り瞬時に把握し、それに対して適切な対応ができるようにマインドセットを訓練しておくのである。高級とされるショップやレストランやホテル、旅館などでの対応などは、こうした事例が多いように思うが、基本的にはこうしたサービスはそれなりの対価を伴う。
ただし、特に異文化間の交流においては、こうしたやり方の限界、あるいは行き届かない場面が見えてくる。基本的に欧米化を志向してきた日本社会なので、欧米人には比較的順応しやすい環境になっているかもしれないが、欧米でのやり方がそのまま通用する訳でもない。たとえばクレジットカード決済が隅々まで行き届いていないとか、英語を使っても理解してくれない人がいるといったような場面がそれである。
そこで、2020年を目指した日本では、ある意味、欧米といわずできるだけ幅広い外国人に迎合した対応をすることを志向しているようにも見うけられる。まさか今時、土足で畳に上がるような外国人はいないだろうが、受容可能な範囲で彼らの言動を受け入れ、それに対応できるようにしようとする。これが異文化間交流におけるCCDやCXDの上位レベルということになるのだろう。しかしそう言い切れるだろうか。
特に異文化体験について
オリンピックで外国人がたくさん訪日した時のことを考えてみよう。外国人が自文化の流儀にしたがって行動した時に、それが何時でもそのまますんなりと受け入れられてしまうような日本は、果たして彼らにとって魅力的なものだろうか。人が異文化に魅せられるのは、それが自文化とは異なっているからだといえるだろう。建築物、祭り、風習などはもとより、店や宿での経験も、町中での人々との交わりについても、その異なり具合が魅力になっている可能性が高い。
重要な点は、そうした場面で外国人に当惑や不快感を感じさせないようにすることだろう。外国人の行動パターンや期待や予想に対し、応対の仕方を単純に合わせてしまうのではなく、自文化の異なり具合をきちんと示し、かつそれをポジティブな形で体験させること、これが異文化体験におけるCCDやCXDだといえるように思える。
イギリスのエドワード8世がアラブの首長達を招待して開いた宴席で、首長がフィンガーボウルのことを知らずにその水を飲んでしまった時、客に恥をかかせるわけにはいかないと、自分も同じことをしたというエピソードがあるそうだ(ウィキペディア「フィンガーボウル」)。起きてしまってからならそうした対応も仕方ないが、あらかじめ洋風のテーブルマナーについての簡単なレクチャーをしておけば良かったともいえる。同じような意味で、最低限の異文化に関する情報を外国人に提供しておくのがいいだろう。あまり事前情報が多すぎると感動も薄れてしまうだろうから、知らないと恥をかいたり無礼になってしまうようなところを重点的に教えるのがポイントといえるだろう。
異文化体験以外ではどうだろう
一般の人工物の場合には、異文化体験と違って目標達成が重要で、有効さや効率が大切だから、ユーザが当惑したり不愉快になったりすることは避けるべきだ。しかし、もてなしのようなサービスという人工物においては、ユーザの目標が達成されるという有効さは重要であっても、時間的には多少の余裕があり、効率が重視されない場合もある。そうした場合には、ちょっとした驚きや当惑は、それが適切な情報提供やガイダンスを伴っていれば、むしろポジティブな経験となるだろう。このあたりをあらかじめ計算し準備しておくなら、おそらくそれが最高水準のCCDやCXDになるのではないだろうか。