怒りと愛-UCDに関する世代論的考察(前編)

僕らの時期は、従来のコンピュータサイエンスの世界に対して反旗を翻し、新しいことを切実に考え出そうとした実験的な時代だったように思う。そして素直な性格の後の世代の研究者は、与えられた既存の方向性を素直に研究し発展させてきたのではないかと思う。

  • 黒須教授
  • 2015年10月22日

最近のできごと

まず本稿のタイトルについて書こう。HIS 2015でのゲリラセッションを終え、大会参加者の有志の集まるビアホールに向かうタクシーのなかで、千葉工業大学の安藤昌也先生(先生と書くと堅苦しいので、以下、いつものように安藤さんと書かせていただく)が「最近、利他性ということに関心をもっていて」と話し始めたのが、その思いつきのきっかけである。ん、利他性? 安藤さんの「ユーザー工学」のベースは利他性、ひいては人への愛なのか、と気づかされた。

僕の「ユーザ工学」は、あちこちで書いているように「ユーザとしての自分」が基軸になっている。そして、ユーザとしての自分が不愉快に感じたこと、不満に思ったこと、不自由や不便を感じたことについて「怒り」を動機付けとして、その原因を分析したり対策を考えたりしたことがその内容となっている。あくまでも短気な自分が中心であり、またネガティブな経験を出発点としているもので、その点で大きく違っているなあ、と思った。

その時までは、まだ安藤さんとの個人的な考え方の違いなのかと思っていたのだが、その晩、首都大学東京の橋爪絢子先生(こちらも橋爪さんという方が慣れているのだが)とLINEをしていて、ゆとり世代のことが話題になった。彼女は僕よりも相当若くて、ゆとり世代のちょっと上の世代になる。僕から見ると彼女の世代もゆとり世代も区別はつかないのだが、彼女はゆとり世代の人たちについて、自分たちの世代とは明らかに性質の違うところがあると指摘し、彼女から見ると批判すべき点が多いように映るとも話していた。また、ゆとり世代の特徴は、ゆとり教育の影響によって性格づけられたものとは必ずしも言えないという話だった。隣接している世代でありながら、結構大きく違うんだなあ、という印象を受けた。そこから更に話は世代による性質の違いに影響する要因は何なのか、といったことに発展していった。そんな出来事があった。

筆者の批判的傾向

さて、僕自身の同世代との共通点と相違点を前提にして、もう少し簡潔に話を要約してしまうと、僕の視点の特徴は「自分自身をコアにして、世の中のモノやコトについて、このままでいいのだろうかと考え、それに批判的、攻撃的に向かっていこうとする点にある」といえる。そうした僕の原点は、つまり僕の「気づき」の発端は、「ん?」という不審感や不快感である。僕の場合は、不審感や不快感というネガティブ感情が着想のベースになっているのだ。しかも気が短い僕のことなので、僕のユーザ工学の出発点は攻撃であり「怒り」にあると言ってもいい。

UCDの言い出しっぺであるNormanは1935年生まれで、1948年生まれの僕とは1世代か2世代違っているのだが、そのコンセプトが身の回りにある製品の使いにくさについての不適切な経験から出発していることは、『誰のためのデザイン?』という著作にも例示されている。彼が怒りっぽい人かどうかは知らないが、多少僕の持っている傾向と共通している部分があるように感じている。

UCDに関する世代的変化

僕や僕の周囲におられたヒューマンインタフェース関係の人たちの動きを振り返ると、まずテクノロジーの分野では、バーチャルリアリティやビジュアリゼーション、オーグメンティドリアリティなどの新しい考え方が勃興してきた。それに対して現在のHCIの世界を見ていると、どうもその時代に生まれたコンセプトを割と素直に継承発展させてきているように見える。いいかえれば、僕らの時期は、従来のコンピュータサイエンスの世界に対して反旗を翻し、新しいことを切実に考え出そうとした実験的な時代だったように思う。そして素直な性格の後の世代の研究者は、与えられた既存の方向性を素直に研究し発展させてきたのではないかと思う。

そしてユーザビリティでありUXである。僕の時代は、ちょうどボードマイコンに始まって、パソコンやワープロが普及し始めた時期であり、コンピュータやその応用製品に初めて触れるユーザが「使いにくい」「わかりにくい」「使えない」を連発していた時期である。そうした状況に対し、人間工学や認知心理学を背景に持つ人たちが中心になって、そうした問題の原因をさぐり、一部のデザイナと共同して、使いやすいもののデザインを志向した時代であった。そうした折り、NormanやNielsenの考え方が紹介され、ISO 13407が登場し、それを契機としてユーザビリティ工学が打ち立てられた。

この時期の自分自身と照らし合わせると、ユーザの「使いにくい」「わかりにくい」「使えない」は、僕自身の問題でもあったし、特に攻撃的な性格の僕は、それらに対する批判的スタンスにもとづいて、その原因を探る手法や解決案を設計する手法などに関心を持った。そんな使いにくくわかりにくい製品を出して平気な顔をしているメーカーは許せない、という気持ちが僕の根底にはあった。だから僕はメーカーの側よりはユーザの側に立ち、ユーザにとって適切なデザインを行うユーザ工学を提唱したし、当然ながらISO 13407のHCDの考え方にも共感した。

当時は、あちこちのメーカーから特にISO 13407絡みの講演依頼もあったが、僕のスタンス、特に初期のそれは「ユーザはこうやって苦労している、だからそれを改善しなければいけない」という、いわばお説教的アプローチだった。しかしどうも反応が芳しくないので、その後「ユーザに苦労させないように製品づくりをすれば、売り上げにも関係してきますよ」的な妥協的なアプローチに変化させた。結局、売り上げに関係するというそのロジックは企業に受け入れられるようになり、ユーザビリティの普及にもつながった。自分なりにはこれまでの経緯をこのように解釈している。

(「怒りと愛-UCDに関する世代論的考察(後編)」につづく)