消費者の自由

現在のUCDは生産者の都合を無視してまでのユーザ中心ではない。消費者のマイナーなニーズは無視される。しかし、改めて消費者のニーズを探るべきだ。採算が合わない物を合うように、技術的にできないものをできるようにする。これがイノベーションにつながるのだ。

消費者にとって自由な市場はあるのか

現在の日本は、いちおう自由主義経済の国である。いちおう、という限定詞は付くが、自由な経済活動が行われており、法的に問題ある経済活動や製品の製造販売などを除けば、自発的な経済活動が推奨され、国家による統制は独占禁止法の存在などを除くとできるだけ少なくなるようにされている。

ただ、これは事業の主体である生産者の側からみた話であって、消費者の立場から考えたとき、世の中にはほんとうに自由な市場があるのかというと、そうではない面が多い。UCDといっても、それは生産者の側の都合を無視してまでのユーザ中心ではない。あくまでも生産者が提供してくれる範囲のなかでのユーザ中心なのである。

事例

消費者のニーズを探ろう、とは良く言われる。しかし、それには「採算のとれる範囲で実現できるなら」という条件が付くし、「技術的に可能なことなら」という条件も付く。何が何でも消費者のニーズを実現してくれるわけではない。生産者は奉仕活動をしているのではなく、営利活動をしているのだから、それは当然のこととされている。いいかえれば、企業は、彼らにとって「都合のいい」ニーズを欲しているのだ。

たとえばトマトやキュウリやキャベツやナスなど、基本となる野菜は旬の時期が無くなってしまい、一年中店で買うことが出来る。これは栽培技術の進歩にもよるし、そのコストが適切な範囲で価格に反映できるようになったからだろう。しかし、そこから落ちこぼれているものも沢山ある。たとえば新鮮なイチジクやスイカを年中食べたいと思っても、簡単には食べられない。もし買えたとしてもシーズンの倍以上の値段が付いてしまっている。また、ある程度の量がはけないと採算が取れないから、インドリンゴなどという希少種はそのシーズンに、しかも農家直送に近い形でなければ入手することはできない。

結局は選択するだけの消費者

要するに市場を支配しているのは数の論理であり、消費者のニーズといってもマイナーなニーズは無視されてしまうか、高い価格を出すならという条件が付けられてしまう。自由主義経済とはいっても、その自由にはこうした生産者や流通業者と消費者の間の力関係が反映されてしまうし、基本的には生産者や流通業者の裁量の範囲内で消費者は行動することになる。

一般的な消費者における限界に対し、技術や装置を持っている人達は比較的自由度が高い。自分に必要なものを自分で作ってしまえるからだ。しかし、大量生産の場合と異なり、コストはかかってしまうし、多面的な技術を要する場合には、そうした人材がいなかったり資本がなかったりすると、たとえ技術を持っていても個人が自分で何かを開発しようとすることは困難である。

改めてまとめてみると、生産力のない消費者は、生産者が提供し、流通業者が手元に送ってくれない限り、製品にしてもサービスにしても、それを受けることはできない。UCDとはいいつつも、製品やサービスの見かけの豊富さにもかかわらず、所詮は「用意されているものから選ぶ」ことしかできない。生産者は生産の原理にしたがっているから、原価割れをしてまで多様な選択肢を提供してはくれない。

消費者のニーズ

しかし、改めて消費者のニーズを探るべきだと思う。そこには採算性や技術を度外視した視点が必要だ。採算が合わない物を合うようにする、技術的にできないものをできるようにする。これがイノベーションにつながるのだ。基本的な野菜を年中購入できるようにした野菜工場などはその一つだし、AmazonのPrimeのような短時間配達は流通革命ともいえる。いずれもイノベーションの事例ということができるだろう。無理を承知で消費者の多様なニーズに取り組むという積極的な姿勢が必要である。そうした動きが活性化して、はじめて、望ましい自由主義経済が成立するようになると考える。

公開: 2016年2月26日
著者: 黒須教授

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