資本主義の先兵、もしくは手先?
UXDでは、「ユーザ」という表現を使いながら、実は消費者や顧客のことを考えていて、実利用場面のことをあまり考えていないのではないか。「古典時代」からのマーケティング活動と類似したUXDは、ユーザをどこかに置き忘れた企業中心主義に陥る危険性が高い。
UXという概念が普及するとともに、HCDの分野にマーケティング関係の人たちの参加が増え、またヒューマンインタフェースを唱えていた時代に比べるとデザイン関係の人たちの参加も圧倒的に増えてきた。思い返すと、ヒューマンインタフェース学会の立ち上げ期からしばらくのことだが、デザイナーの人に学会の理事会への参加をお願いした場合、ポスターなどのデザインを依頼することが主なお願い事となっていた。そもそも、その時代にはヒューマンインタフェースの学会活動に、デザイナーの人たちが参加することが、とても少なかった。それが今では、特にHCDなどの活動では、デザイナーがむしろ中心的な役割を担うようになっている。
これとは反対に、伝統的なユーザビリティや人間工学、それとユニバーサルデザインやアクセシビリティに関係している人たちは、現在、ちょっと肩身の狭い思いをするようになっているかもしれないし、光が当たらなくなったなあと嘆いているかもしれない。
なお、これらの全体を括るのにHCDという表現が適当かどうかという問題はある。そこまでHCDという概念が普及しているかどうかも疑わしいのだけど、他に全体を括る表現がないので、とりあえずHCDということにしておく。
さて、この時代的変化は、HCDの視野を広げることに貢献してくれた、いや、してくれた筈なのだけど、どうも「ユーザビリティ時代」と比較した場合、この「UX時代」には、そしてその中心的活動であるUXDでは、「ユーザ」という表現を使いながら、実は消費者(コンシューマー)や顧客(カスタマー)のことを考えているように思えることが多い。UXを考えることは売り上げに貢献することだ、という言い方をする時は、消費者や顧客のことを考えているのは明白である。まあ、そういう言い方を自分でもしなかった訳ではないので多少の反省もあるのだが、製品にしろサービスにしろ、どうも本来のユーザのことが忘れられかけている、ないしはユーザといいつつ実利用場面のことをあまり考えていないのではないか、と思えることがある。もちろんUXDでは、利用場面のことも考える。しかし、その多くは期待されている利用場面であり、実測された利用場面ではない。
とすると、これは正に「古典時代」からマーケティング関係者がやってきたことと同じになるのではないだろうか。消費者や顧客をターゲットとして想定しておきながら、それをユーザと呼び、彼らが製品やサービスを利用している場面を想像して、その予期的評価を行う。もちろんUXDでも評価を行っていない訳ではない。しかし、評価のフェーズは(狭義の)デザインのフェーズよりも後になるという理屈でか、実際にUXカーブなどを使って利用開始から半年ないし1年たってからの評価を求めるような活動をデザイナーがやっているという話はあまり耳にしない。それはユーザビリティ担当者の仕事だということなのかもしれない。まあ連携活動はしないよりはした方がいいのだが、もしそうだとすると「古典時代」のデザインにおける分担形式とあまり変わり映えがしないようにも思える。
そこでタイトルとなる。資本主義、という言い方は最近はあまり流行らないかもしれない。これは40年以上前の対共産主義という枠組みで良く使われた言葉であり、またその後、共産主義や社会主義も変質したし、資本主義も変質してきた。その意味では、企業活動の先兵や手先と表現してもいいのだが、どちらでも僕の意図は同じである。資本主義には、「私企業による生産」とか「市場における競争を通じた需要、供給、取引価格の調整、契約の自由」という特徴がある(ウィキペディア)。こうした意味合いでいえば、マーケティング活動と類似したことをやっているUXDは、ユーザをどこかに置き忘れた企業中心主義に陥る危険性が高い。そして良く言えば企業中心主義の「先兵」、悪く言えば「手先」ということになる。つまり、良くも悪くも最先端ではあるが、何をさておき、消費者や顧客を引きずり込むことが主目的になってしまっては、ユーザによる実利用場面なぞ、どこかに吹っ飛んでしまう。
「評価してください」で以前書いたように、ユーザビリティ活動を評価活動と誤解する向きが多かったことをつい思い出してしまう。評価という活動が重要であるという認識はエンジニアにも多かったという点では、そうした誤解はまだマシといえる。
UXDという言葉を耳にするたびに思ってしまう。なぜUXEがUXDと同じ程度に使われないのか、と。UXDのDは狭義のデザインではなく広義の設計という意味で、HCDのDと同じなんですよ、というならそれでもいい。それならHCDと同じように、もっと評価にも力を入れ、ユーザによる実利用場面に肉薄する意気込みを持ってもらいたい。