エスノグラフィにおけるサンプリング

質的調査におけるサンプリングは、量的調査におけるサンプリングほど多数のサンプルを利用することができないものの、できるだけそれに近い考え方にしたがって行うべきだ。

  • 黒須教授
  • 2013年11月18日

今回の内容は僕の考え方であり、必ずしも現在、研究者たちの間で中心となっているものではないことをお断りしておく。また傍証として、末尾にあげたIDEOの資料を援用させていただく。

エスノグラフィの目的と統計的サンプリング

僕は、統計的サンプリングの考え方は、概念的な形で質的調査にも適用されうるし、またされるべきだろうと考えている。どんな特性についても、そこに程度の差を考えることができるならば、それは何らかの次元の上に位置づけられ、その上に分布を想定することができる筈である。また、母集団という概念も、対象とする特性によって大小の違いがあり、大きな母集団と小さな母集団を想定することができる、と思っている。

そこで関係してくるのが焦点課題の粒度である。たとえば、焦点課題が「何か新しい情報通信機器を考え出したい」というように漠然としている場合と、「独居高齢者にとっての携帯電話の意義を考え、新しい携帯電話のあり方を考えたい」というように限定的な場合では、焦点課題の粒度に大小の差がある。後者の場合には、独居高齢者ということで、デモグラフィック属性に限定がついているので、ある程度少ないサンプル(インフォーマント、情報提供者)でも調査をすることができる。しかし前者の場合には、デモグラフィック属性に関して全く限定されていないから、それこそ年齢、性別、居住地域、居住形態、嗜好などの様々な変異を考慮する必要があり、必然的にサンプル数は多くなる筈である。それを数人から十数人のサンプルに対する調査で行ってしまおうとするのはかなり乱暴な話である。

ここで問題となるのは、どのような目的でエスノグラフィを行うのか、ということだ。ひとつの立場として「着想のヒント」が得られれば良い、というスタンスがある。このスタンスが妥当であるとすれば、前者のような場合でも数人程度の調査でヒントが得られれば良いと考えられることになるが、果たしてそれでいいのだろうか。そもそも、そこでヒントを得た「着想」の妥当性はどうやって検証するのだろう。それは調査者の直感と洞察によるのだ、という言い方も可能だろうが、その洞察の妥当性は依然として未解決なままである。結果が良ければそれで良いではないか、と言うにしても、「結果が良かった」ことはどうやって確認するのか。売り上げが上がればそれで良かったことになるのか。いやしかし、それで売り上げが上がるという保証はどうやって担保されるのだろうか。こうした理由から、僕は「着想のヒント」を得るというスタンスは取っていない。いや表現を改めるなら、不十分な数のサンプルから得た着想は信用しない、という方が正しい。

理論的サンプリング

ここで登場するのが理論的サンプリングの考え方だ。理論的サンプリングは、サンプリングを続けていって、得られる情報が飽和してきた段階で調査を止める、という考え方である。その飽和感というのは感性的なものではなく、IDEOのツールキットに書かれているように「調査から得られるものが徐々に減っていないかどうかに注意し、新しいことがほとんど学べなくなったら調査をやめましょう」(p.16)というようなことである。新しい情報や新しい知見が得られるかどうかは、単なる感性的印象ではなく、論理的な実感である。この考え方からすれば、そうした理論的飽和の段階に至ってから「着想のヒント」を得るようにすれば良いということになる。もちろん、着想の前段階の仮説のようなものは、調査を続けていれば次第にできてくるが、できるだけそれにバイアスをかけられないように注意しながら調査をやっていく必要がある。

また、前述の分布についても考慮しておく必要がある。無闇にサンプル数を増やすのではなく、焦点課題に対応した特性の次元に関して任意でいいから分布を想定するのである。これはIDEOのツールキットではP.41に書かれているようなものに相当する。IDEOの場合は、分布を想定したら、両端(理想と極端)をそれぞれ1/3ずつ、そして中央部分(平均値や最頻値などに対応する)を1/3とる、というものだ。もちろん何らかの尺度を利用して測定する訳ではないから、かなり直感的なものではあるが、やはりそれなりの分布を想定してはいる。

要するに、質的調査におけるサンプリングは、量的調査におけるサンプリングほど多数のサンプルを利用することができないものの、できるだけそれに近い考え方にしたがって行うべきだ、ということである。

参考文献

IDEO (2009) “Human Centered Design Toolkit (2nd Edition)” (柏野尊徳監訳)