記号論から考えるUX

UXという概念は、言語や数という記号体系で表現するのが難しい。しかし、記号体系で可能な限り多様なことを記述してきた人類として言語的に語る以上は、UXの概念定義は必須である。

記号体系で表現できたユーザビリティ

UX関係者がUXという概念をきちんと定義しないまま、UXPAというように組織名称を変えてみたり、UXをデザインするとか言い出したりしてから随分時間が経っている。この傾向はデザイナやマーケティング関係者に良く見られるように思うが、それに対して苦言を呈してみても、大方無視されてきたようだ。挙げ句、いわゆるUX的コミュニティから自分は排斥されつつあるんじゃないか、などという気がしないでもない。ケチをつけるだけで屁理屈をこねている輩と見られているのかもしれない。夢も希望も実践的手法も与えてくれない人間は、たしかに不要であるともいえる。しかし、ユーザビリティの時代はこうではなかった。当時はISO 9241-11の定義が世界的に普及し、特に有効さと効率という概念が関係者の共通の旗印となっていた。

何がどう違うのだろうか、という問いをいつも自分に投げかけてきたのだが、記号論の話を改めて読んで考えてみると、どうもそのあたりに一つの示唆があるように思った。無論、僕は記号論の専門家ではないから、適当で自分に都合のいい解釈をしている可能性はある。ただ、それなりの一つのロジックが見えたような気がしたのだ。

ユーザビリティの時代には、言語という記号体系、特に話し言葉というテスト参加者の用いるメディアの分析から意味を抽出することが一つの基本だった。そして、指標とされる有効さや効率については、正答率や課題達成時間のような数という記号体系が基本でもあり、言語という記号体系だけでは表現しにくい側面を、それなりに明確に切り出して議論の俎上に乗せることができた。

記号体系で表現するのが難しいUX

さて、UXの時代になってから、言語という記号体系は、どれほどの意義を持ち得ているのか、という話になる。経験という概念はもちろん言語体系のなかに含まれているものだが、その意味しているところは有効さや効率のように数という記号体系では表現しにくいものだし、言語表現によっても十分に表現しつくすことが難しい。むしろCustomer Journey Mapなどのようなビジュアルな記号体系の方が、関係者の間での意思疎通をやりやすくしているのかもしれない。

そもそもデザインやアートや建築などについて、言語という記号体系でそれを表現することの虚しさを我々は良く知っている筈だ。デザイナやアーティストや建築家は、作品で自己表現をする。しばしば、その作品について言語で説明しようとするデザイナやアーティストや建築家もいるし、いわゆる評論家という人たちは、言語という記号体系で、その作品について論じようとしてきた。しかし、その虚しさは、あの小林秀雄の「モオツァルト」ですら満たすことができていない類のものである。モーツァルトの音楽の解読はしてくれても、その感動は与えてくれない。ましてや、デザイナやアーティストの書いた本を読んでみると、「それがどうした」という印象を強く持つことが多い。おそらく、彼らは言語という記号体系を使いこなすスキルを十分に持っていないことが多いからだろう。

そんなことから、UXについても同様のことが言えるのかもしれない、と思った。経験をデザインする、結構。しかし経験というのは、話し言葉や書き言葉だけでなく、視覚的、聴覚的、その他さまざまな感覚的印象の総体であり、しかもインタラクティブなものであり、それに対する感性的・感情的な印象を伴ったものである。これほど複雑な記号体系の総合体もないだろう。記号体系の総合体であるから、言語体系だけで表現し尽くすことは困難である。肝心なのはユーザがどういう経験をしてどういう「気持ち」になるかだからだ。

しかし、だとしたら、UXについてのフォーラムやワークショップで言葉を駆使したとして、どれだけ「自分ではないユーザの経験に対する概念」としてのUXに関する意味が伝わるというのだろうか。その場には聴衆や参加者としての経験は沢山あるし、聴衆や参加者としての経験の楽しさや発見はあるかもしれない。しかし、それが肝心のユーザの経験にどうつながるのか、それをどうやって担保できるというのか。結局、聴衆であったり参加者であったりした人たちが、ユーザのためにどれほどの作品を作ることができ、それによってユーザにいかほどの経験をさせることができるかが課題なのだ、という話なのではないのか。

言語的に語るなら概念定義は必須

UXはユーザの経験であり、そこではデザインされた人工物がすべての意味を担っている。だからUXを言語で語ることには、そもそも隔靴掻痒の感がある。しかしながら、人類は、言語という記号体系と、時には数という記号体系で、可能な限り多様なことを記述しようとしてきたわけで、UXにおいてもそれは例外ではない。ただし、言語という記号体系をつかう以上は、その記号体系の「約束事」を守ってもらわねば困る。つまり、言語的にUXを語る以上は、少なくとも概念定義を行おうとする志向性は必須のものだといえる。あまりにも無造作に言語を使い、概念定義すらきちんとせずに議論をしている傾向が見えるからそう思うのだ。このあたりが今回の締めである。

公開:2014年9月16日
著者:黒須教授

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