アカデミアの社会的機能

ここ20年くらい、ヒューマンインタフェース関連学会の大会や論文が面白くない印象がある。その原因を探ってみると、どうも、社会的に拡散するようなイノベーションがみられないからのようだ。

韓国のソウルで開催されたACMのSIGCHI 2015に出かけた。その前に行ったのは2013のパリ大会だった。SIGCHIはヒューマンインタフェースの分野では世界のトップクラスといわれている。しかし前回もあまり面白くなかったし、今回もそうだった。何故なのだろう。何が僕にとって面白く、何が面白くないのだろう。

最近は、ヒューマンインタフェース関連の大会だけでなく、その分野の論文についても同様の印象を受けている。最近といっても、ここ10年、いや20年くらい同じような印象を抱いている。それが面白くない原因を探ってみると、どうも流行り言葉ではないが、イノベーションがみられないからのようだ。イノベーションといっても学会的な閉じた世界でのイノベーションではなく、社会的に拡散するようなイノベーション、社会的なインパクトのことである。

ヒューマンインタフェースの領域も他の領域と同様に、それがユーザ、つまり技術の恩恵を受ける一般の人々にとってインパクトがあるかどうかという点が重要なのだと思う。新物質が発見されてそれが新薬になる、新しい遺跡が発掘されて歴史が書き換えられる、といったような形で社会的なインパクトにつながっていないところなのではないかと思う。果たして新薬につながる新物質が最近のヒューマンインタフェースの領域で発見されたのか、という言い方をしてもいいだろう。

社会的インパクトのあるものが、学会で発表されなくなった

ふたむかし前、BushがMemexを提唱した時、それはちゃんと論文として公刊された。それが現在ではハイパーメディアを経由し、Berners-Lee達の努力を経てインターネットという形になり、世界中で人々はその恩恵にあずかっている。Engelbartがマウスのアイデアを思いついたとき、それもちゃんと世間に公開されている。その後のマウスの発展はめざましく、現在ではボールマウスは姿を消したが、その基本コンセプトは光マウスとして、また機能的にはホイール付きマウスとして世界に普及している。坂村やWeiserのユビキタスコンピューティングの概念も公開され、近年の技術の進歩と相まってIoTという形で実装されはじめている。もちろん、こうした後世につながる技術開発だけでなく、その中には大勢の消えていった発明もあったわけだが、少なくとも技術開発は社会的なインパクトを持ち、その後の世界を牽引する力を持っていた。KayのDynabookの構想も、Appleが公開したKnowledge Navigatorのビデオも、それなりに未来を予見させる力を持っていた。

それがどうだろう。現在では、話題になっている製品やシステム、サービスなどは、突然のように社会に登場し、FacebookやLinkedInにしても、Google Mapsにしても、Google ScholorもGoogle Translationにしても、Siriにしても、iTunesにしても、Amazonのワンクリックにしても、すでに我々の生活の構成部品として欠くことのできないものになっている。しかし、そうした革新的で社会的インパクトのあるヒューマンインタフェース関連のモノやコトは、学会という場で発表され議論された訳ではないだろう。

果たして、それらのモノやコトは、やればできることじゃない、誰でも思いつく程度のことであって、彼らは単にそれをやっただけだよ、という種類のものなのだろうか。そう言い切れるのだろうか。

実社会から遊離した、研究者のための学会

僕には学会という場が、すでにそうした実践家たちにとって、魅力のない閉鎖的な場に過ぎないと見なされてしまっていたからではないかと思える。以前からみられた傾向だが、最近のインタフェース技術は、アートやエンタテイメントには応用できそうなものが多い…というかそれが大半ではないかとすら思える。まあ、アートやエンタテイメントもそれなりの社会的機能を持っているから、その意味での社会的インパクトがあるのだと言えないこともないだろう。

それにしてもSIGCHIの会場に詰めかけた3000人の人たちの熱気は何なのだろう。ちょっと考えて一つの仮説にたどり着いた。それは研究者たちにとって、学会という社会は、自分の業績を確保し、昇進や転職につなげるための業績確保の場として機能しているのではないか、ということだ。いかに実社会から遊離していても、アカデミアの世界はひとつの世界として存在する。そして、その中で這い上がり、有名になることはその世界で暮らす人々にとっては一つの価値基準としてそれなりに十分な社会的機能を果たしている、ということもできる。一見、白熱した議論のように思えても、それは議論のための議論であり、そのベースになっているのは研究のための研究なのではないか。

もちろん、そうしたアカデミズムの価値観に重きを置く考え方はそれなりに存在しうるだろう。業績確保のためだけでなく、アカデミズムの世界の中で議論を尽くすことに価値を見いだす人がいても、それはその人たちの生き方である。

しかし、と思う。それは僕にとっては面白くない、つまらないものである。やりたければやればいい。僕とも、社会とも関係ないところでね、というわけだ。

公開: 2015年6月26日
著者: 黒須教授

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