リアルの世界とバーチャルの世界

このコロナ禍で、縮退したリアルと、拡張したバーチャルとによって、現実感の喪失に陥ってしまった。リアルとバーチャルの比率が歪んでしまうと、自分が現実世界に生きているのかさえ信じられない気持ちになることがある。

  • 黒須教授
  • 2021年10月5日

コロナ時代のリアル

COVID-19の時代になってもう1年半以上が経過した。2020年当初、最初の緊急事態宣言の時には世間の警戒心も高く、渋谷駅前のような街頭から人気が無くなったりしたが、その後、徐々に緩みだしてGo Toトラベルなどの施策が実行された。筆者も、日光、奈良、下北半島、奥飛騨あたりをGo Toトラベルなんかを利用して旅行したりしていた。やはり現地を旅行するのはいいものだ。空気が違うことが匂いや肌にあたる風で感じられる。自分の体の移動につれて景観が変化することが、たしかに「ここ」にいるのだという実感を与える。歩くことによる軽い疲労感がさらに実感を強める。いくら4Kテレビでもそうした感覚を伝えることはできない。テレビは視覚と聴覚の手がかりしか与えてくれないのだ。

しかし、2021年の冬の感染爆発以降、熱海の家にはちょっと出かけてみたものの、以後、旅行の類はぷっつりと止めてしまった。カレンダーを確認したところ3月以降は熱海には一度も行っていない。当然、釣りもしていない。それこそ、自宅に閉じこもり、家を出るのは月に一度のクリニックと美容院、話をするのは同居人と同居猫、あとは宅配便や郵便局の人、出前の配達人に礼を言うくらいである。外食店で酒が飲めなくなってからは夕食にウーバーとか出前館で注文することにしたため、外出の機会はさらに減った。食材などの買い物はすべてネットにしていたため、外出する必要性もなかった。そして、生き物との接触といえば、他には窓ガラスに貼りついたヤモリの腹をガラス越しにいじったり、ディスプレイ上に現れる小さな蜘蛛とカーソルで追いかけっこをして戯れるくらいになった。いや、なんともミニマルなリアル生活である。

そしてバーチャルだらけの世界へ

そういう状況で、筆者の生活は激しくバーチャルだらけのものとなった。コロナ禍になる以前から、買い物のほとんどはamazonとネットスーパーになっていたが、もちろん両者ともにインターネットベースだから、実店舗に行く必要性は極端に減少していた。特にネットスーパーは、たとえば飲料の入った箱、2リットルボトル6本入りだから12kg、これが玄関で受け取れるのがありがたかった。車の運転を止めてしまってからは、大量で重たいものを持って帰るのはバスでは無理だったからだ。

もちろん情報収集や娯楽のためのWebブラウジングやテレビ、ラジオもバーチャルである。話題になっていたオリ・パラは、もともと興味がなかったこともあるが、テレビ・ラジオのニュースで片手間に見たり聞いたりして、ああやってるんだな程度の遠い現実だった。またYouTubeは、各テレビ局のチャンネルを登録していることもあり、毎日膨大なニュースが届く。そのサムネイルのタイトルを見ているだけでも、世間のおおよそのできごとは分かったつもりになってしまう。興味があれば日経新聞のサイトやYahoo!ニュースなんかを見たり、さらに検索をしたりするが、いずれも遠い世界のこと。直接自分に関係するのは天気予報くらいだろう。まあ、これはそれぞれのメディアが持っていた元々の性質で、取り立ててバーチャルというほどのこともないだろう。

仕事の連絡がメールになったことも、日常の愚痴や感想なんかを書くのがFBになったことも、友達との会話がLINEやMessengerになったことも、自分の考えを表明するのがこのU-Siteになったことも、いずれもコロナ以前からのことであり、特に生活がバーチャルになったという印象を強く与えるものではなかった。

コロナの時代で日常生活のバーチャル化をいちばん強く大きく感じさせたのは、何といってもZoomやWebExの利用だろう。

WebExはHCI Internationalのリモート開催で経験したが、本格的な国際会議をオンラインで実施するのは初めてだった。各国間の時差の問題もあったし、質疑が活発にならないという問題もあったが、現地に行くための費用と時間と現地での滞在費を負担せずに自室に座って会議に参加できるという点は、現地で買い物や観光ができないというデメリットと相殺されるものだったといえる。

Zoomの方は、それこそ国内学会や研究会、インタビュー調査、打合わせ、そしてオンライン講義で活用させてもらった。リモ飲みもその利用形態の一つで、数人の飲み会も、個別の飲み会でもしばしば利用させてもらった。飲み会は数時間に及ぶことも結構あった。このZoomの頻繁な利用のおかげで、筆者の生活はバーチャルな環境にどっぷりと浸る形になった。

リアリティの喪失

このように書いてくると、リアルな世界での対人接触が減少し、バーチャルな世界での対人交流が増加したことは明白である。特にZoomの頻繁な利用は、リアルな対人接触を大きく減少させた。もっとも、会議やミーティングの機会の少ない一般の人達の場合には、ZoomやWebExを利用することはあまりないかもしれないので、前節に描いた生活状況は筆者に特有なものかもしれない。とはいえ、会社員はリモート業務が増えたし、学生も遠隔授業などで、遠隔会議システムに接する機会はあるだろう。むしろ、全く利用していない人の方が少ないのかもしれない。

ここで、ちょっと一般的な「日常」感覚の話をしておきたい。つまり、遠隔システムの利用が無くても、外出するならマスクや手指消毒、社会的距離に注意をしなければならない状況というのは、「従来的なリアル」な生活状況ではないという点だ。この「新しい日常」と呼ばれるリアルな生活状況は、従来のようなリアリティを失わせるようなものであり、いまはそれが一般化してしまっている。

似たような統計データはあちこちに出回っているが、ちょうど1年ほど前の2020年秋に筑波大学が7520人に対して実施したアンケート調査によると、図1のようなデータが得られている。

図1 筑波大学の調査結果(新型コロナウイルス感染症に関わるメンタルヘルス全国調査

調査に回答した8割の人々がなんらかのストレスを感じているのだ。「従来的なリアル」な生活でもストレスはそれなりに存在するだろうけれど、コロナに関連したストレスで8割という数値はやはり尋常ではない。しかも、その状況が継続している2021年秋の現時点より1年前のデータである。サンプルサイズが500と少ないが、2021年上半期についてeBay Japanが実施した調査でも、同様の図2のような結果が得られている。

図2 eBay Japanの調査結果(働く女性の2021年上半期振り返り調査

いいかえればコロナというストレッサーのない「従来のような日常」は失われてしまったことがデータ的に示されている、といえるのである。

ただ、本稿では、メディアを通じたリアリティが現実のリアルな対人接触を置換できるものかという点に焦点を絞りたい。

リアルな対人接触といっても、相手の体に触るわけではない。目の前に三次元的な形で相手がいるか、そのイメージが二次元的な画面に映されているか、という違い、そして物理的な外部環境を共有しているかどうかという違いである。これについて筆者は、現在のような生活に入ることになって、その違いがこれほど大きな現実感の喪失につながるとは思っていなかった。

第一節に書いたような縮退したリアルと、第二節に書いたような拡張したバーチャルとによって、本当に現実感の喪失、いやほんとうに危機といっていいような状況に陥ってしまったのだ。もとよりテレビの世界はバーチャルであることを熟知している。しかし、そのバーチャルは、通常は、応分のリアルの世界によって補填されているものだ。だが、現在のようにリアルとバーチャルの比率が歪んでしまうと、自分が現実世界に生きているのかさえ信じられない気持ちになることがある。

今回のコロナの状況は、そうした意味で、ヒューマンインタフェースのひとつの壮大な実験となってしまった。いや、もしかしたら、これは筆者という人間の個人的体験にすぎないのかもしれない。しかし、口酸っぱく緊急事態と言われていても、テレビの画面には街を歩く人々が映し出されている。こうした人達は、その生活におけるR/V(Real/Virtual)比の極端な減少に耐えられずにリアルの世界に外出し、自分のなかのバランスをとっているとも考えられる。

R/V比の話を出したが、ARやVRが盛んになっている現在、ゲームの世界もバーチャル世界の典型的な事例であり、特に巣ごもり生活のなかで、それに浸る若者も増加していると聞く。このようにR/V比を低くする背景があるなか、さらにコロナによってバーチャルの世界が増幅されている。こうした技術的仮想環境に浸りすぎることで生活全体のR/V比が度を越した低いものになってしまったら、人間はまともな精神状態を維持していけるのだろうか。人びとのストレスの原因をメディアにだけ押し付けるつもりはないが、そんな心配をしないではいられない。