怒りと愛-UCDに関する世代論的考察(後編)

利用現場の状況に対する批判的アプローチにもとづいて手法を整備し活動を活性化してきた初期の世代と、それを継承し、より「楽しさ」や「うれしさ」、さらには「愛」を重視するようになった後の世代との間には、質的な変化が起きているのではないか。

  • 黒須教授
  • 2015年10月28日

(「怒りと愛-UCDに関する世代論的考察(前編)」からのつづき)

UCDにおける世代間格差

さて、UXの概念だが、その表現が最初に公的に登場したのは1993年にNormanがApple ComputerのUser Experience Architectに就任した時だったが、それが欧米や日本に広まったのは2000年代に入ってからだった。いいかえれば、僕の次の世代の人たちが中心になって、それを唱道しはじめたわけだ。僕はちょっと遅れたが、UXという概念を自分の考え方と統合することを目指し、その作業はようやく最近になってまとまってきたが、世の中は、概念定義はさておいて(もちろん多数の概念モデルのようなものが提案されてはいるが)まずは売り上げを高める活動をしましょうよ、という形で進んできてしまっているように見える。初期のUXは売り上げ重視のスタンスが中心となってしまい、これには当のNormanも2007年に行ったMerholtzとの対談で困惑を示している。つまり、2000年代中頃からUCDについては世代的なシフトがあったと考えられる。僕もNigel Bevan(1946年生)もUXという概念を従来の枠組みに取り込むことに注力したが、どうもそれは十分に拡散されてはいない。

要するに僕らの後の世代のUCD関係者は、usability概念が唱道された1980-1990年代には中心課題であった「ユーザの困惑や苛立ちを解消しよう」という目標より、(安定した世の中のなかで)もっと売り上げを増すことを活動のモチベーションとし、そのために「楽しさ」や「うれしさ」をUXの中心と捉えて活動するようになったのではないかと思う。

手法的には、ユーザビリティテストにしてもインスペクションにしても、インタビューにしても、現在使われているものの大半が1980-1990年代(基本的な部分はそれ以前にできたものも多い)のユーザビリティ工学の文脈の中で考案されたものである。もちろんcustomer journey mapやKA法、UX curveなど、幾つかの新しい手法も提唱され、使われるようになったが、いずれも消費者としての購買行動(消費行動)につなげようという意図があり、問題解決型のアプローチ(怒り起動型のアプローチを穏当にいえばこうなるだろう)とは性質が違っているように思う。

さらに、1980-1990年代のユーザビリティの普及・実践活動がそこそこ功を奏して、それ以降の製品やシステムには、当時のようなユーザビリティの低さはそれほど多くみられなくなってきている、という対象機器の側の変化もあるだろう。もちろんまだまだヘンテコな機器やシステムが多数でてきているのも現実ではあるが。

言い換えれば、HCIテクノロジーの領域と同様に、UCDの領域でも、利用現場の状況に対する批判的アプローチにもとづいて手法を整備し活動を活性化してきた初期の世代と、それを継承し、どちらかといえば売り上げを意識し、より「楽しさ」や「うれしさ」、さらには「愛」を重視するようになった後の世代との間には、質的な変化が起きているのではないか、ということである。

新しい世代のUCD

これまで、UCD活動のモチベーションが、メーカーへの憤りベースのものから、売り上げ重視のものに変化してきて、それがUCD活動を担う人たちの世代的変化に関係しているのではないか、という話を書いてきた。ただ、その話は、団塊世代とポスト団塊世代の対比にとどまらない。時間はどんどん過ぎてゆき、新しい人たちがマーケットにも、そしてUX活動のなかにも参入してくる。当然UCDのアプローチにもさらなる質的変化が予想される。

その変化がどのようになるか、その予測については興味のある方が多いと思うが、僕の予想はあまりその方々にとって魅力的なものではない。一般的にいって、研究やそれをベースにした活動の領域は、時間の経過につれて一種の成長曲線をたどるものである。つまり、団塊の世代が基礎付け、ポスト団塊の世代がそれをブラッシュアップしたユーザビリティ、UXの研究や実践活動は、現在、成熟期に向かいつつあり、これ以後は、それをgivenとして、反復的に実践していく時代になるのではないか、と考える。もちろん技術の進展とともに、新しいカテゴリーの製品やシステムはどんどん登場するだろう。それらに対して既存の手技法を適用し、ユーザビリティやUXを向上させてゆくのは重要かつ有意義な仕事である。ただ、新規開拓という意味でのおもしろさは減ってしまうかもしれない…そんな風に考えている。

近未来のUCDの課題

追記しておくべきことだろうが、成長曲線をたどる研究・実践領域において、突然横に枝が生え、それが新たな方向に発展していくということはある。特にそのきっかけになりそうなのがAIの進歩にともなうsingularityの問題だ。AIの能力が飛躍的に向上し創造性すら獲得し人間の知能を凌駕するようになる時代、ロボットが自らロボットを設計し製造するような時代、ロボットが人間に関する完璧なモデルを持つようになってしまう時代、人間はあらゆる情報をモニターされロボットに支配されてしまう時代。果ては一部の人間だけが動物園に隔離され観客のロボットたちにその生態を見せるようになってしまう時代。こうした状況は必ずしもSFの世界ではないと僕は考えている。

こうした極端な技術の進展に対し、どのように人間性を守るかということ、つまり、主体性、能動性、自尊心、責任感、達成感、自由、プライバシーなどを守るためにはどのようなアプローチが必要なのかを考えねばならない。原子力技術を発達させてしまった人類としては、AIやロボットの技術開発をどのように制御すべきかという問題を考える必要がある。AI技術を取り入れたシステムをどのように設計すべきか、そのシステムを取り込んだ社会をどのように構築すべきかを考えるなら、これもUCDという範疇に含めることはできるだろう。いや、そのときこそUCDよりもHCDという言い方がふさわしい時代であるのかもしれない。そして、そうした目標意識を持って関係者はその問題に取り組むべきだろう。これはかなり近いうちに必須課題になりそうな気がしている。

ともかくUCDの世界にも世代間格差はあるし、また研究実践の成長曲線という事実もある。しかし、随時、臨機応変に考えねばならぬ課題を見つけ、それに挑戦していくということが、特に若い世代のUCD関係者には望まれることだと思っている。