原典への旅(1):
『エモーショナル・デザイン』の三階層モデル
Norman, D.A.の『エモーショナル・デザイン』を読んだ方も多いだろう。あの中の基本的枠組みとなっているのが、「処理の三レベル」といわれる、本能レベル、行動レベル、内省レベル、という区別である。しかし、そこには二つの疑問がある。
原典主義の立場
僕は原典に遡らないと気が済まないことが多い。ネットには第三者が紹介しているサイトが多数見つかるが、その信ぴょう性が疑わしいことが多いと思っているからだ。原典へ遡る旅をしていると、原典の著者の考えていたことがすっきりと理解でき、後年そこに付け加えられた人々の解釈(誤解を含む)との区別がはっきりしてきて、「ああ、そういうことだったのか」と思うことが多い。
もちろん原典の方が常に「正しい」ということではない。特に、同じ著者が改定した場合には、最新のものの方が「正しい」といってもいいだろう。ただ、原典主義で調査を進めてゆくことは時間を要する。日々の仕事に追われておられる読者の皆さんは、のんびり原典への旅なんかをしている時間はないだろうから、僕が代わりに旅をしてみることにして、その結果をレポートすることにしよう。
とりあえず3つのケースを順次とりあげる。『エモーショナル・デザイン』『KJ法』『属性列挙法』である。今回は『エモーショナル・デザイン』を取り上げる。
出発点としての疑問
Norman, D.A.の”Emotional Design”は『エモーショナル・デザイン』というタイトルで既に邦訳がでており、読んだ方も多いだろう。あの中の基本的枠組みとなっているのが、(編注:「処理の三レベル」といわれる)本能レベル、行動レベル、内省レベル、という区別である。しかし、そこには二つの疑問がある。
- どんな根拠があって、それらの3つを取り上げたのだろう。思いつき的にリストアップされた3区分なのか、あるいはどんな根拠があるものなのかを確認したかった。世の中には、たとえばFreudのエス、自我、超自我のように、それをたとえば生理学的に検証できないまま、受け入れられてしまっている概念がたくさんある。現在の心理学では、実験心理学による実証的な取り組み方が基本となっているけれど、どのような実証的根拠が、あの三つのレベルをもたらしたのだろう。
- 本能レベルとして、馴染みのないvisceralという単語が使われているけれど、なぜそんな単語を使ったのだろう。特別な意味合いがあるのでなければ、本能的といいたいならinstinctiveという平易な単語でもよかったのではないか。
こうした疑問をまったく抱くことなく、Normanのいうことならそのままそっくり頂きましょうというスタンスの読者にとっては面白くない記事かもしれないが、多少とも批判的に読書をする人にとっては参考になる内容だと思っている。
第二の疑問への回答
改めてそうした疑問を抱きながら同書を再読していると、訳書のp.26に「ノースウェスタン大学心理学部で同僚だったアンドリュー・オートニー教授とウィリアム・リヴェール教授と共に行なった情動に関する研究」と元論文が言及されていた。そこで注の中を探して、それがOrtony, Norman, & Revelle (2004)という論文であることを確認し、さっそくGoogle Scholarで検索した。
でてきたものは、Ortony, A., Norman, D.A., and Revelle, W. “Affect and Proto-affect in Effective Functioning” (2003)という論文で、Fellous, J.-M. & Arbib, M.A.が編集した”Who Needs Emotions?” (Oxford U.P.)という書籍に収められていることがわかった。さっそく、そのPDFをダウンロードして読み始めた。もちろん書籍の方も中古を2198円でamazonで注文した。
さて論文を読んでいると、でてきました、三階層の話が。しかし、それはreactive, routine, reflectiveというもので、visceral, behavioral, reflectiveという表現とはちょっと違うものだった。
ノーマンの本能的、行動的、内省的という言い方
謎解きの旅はさらに続く。”Emotional Design”では、visceral (本能的)、behavioral (行動的)、reflective (内省的)となっている。ところが、前述のように元論文ではreactive (反応的)、routine (ルーチン的)、reflective (内省的)となっている。訳書のp.28の図は、IBM Systems Journalに掲載されたNorman, D.A. Ortony, A. & Russell, D.M. (2002)の“Affect and Machine Design: Lessons for the Development of Autonomous Machines”という論文からのものだが、次のようになっている。
reflection、つまり「内省」という表現は変化していないが、routineとreactionは“Emotional Design”とは異なっている。念のため、Ortony, Norman and Revelleに載っていた比較表を次にあげておこう。
処理レベル | |||
---|---|---|---|
反応的 | ルーチン的 | 内省的 | |
知覚入力 | あり | あり | なし |
運動出力 | あり | あり | なし |
学習 | 馴化、一部の古典的条件づけ | オペラント条件づけと一部の古典的条件づけ、事例ベースの推論 | 概念化、アナロジカルな推論、比喩的な推論、反事実的推論 |
一時的表象 | 現在、および過去についての素朴な表象 | 過去、現在、および未来についての素朴な表象 | 過去、現在、未来、および仮説的な状況 |
調べてゆくと、第二の疑問に関する種明かしは『エモーショナル・デザイン』のp.164 (原書ではp.123)に書かれていた。訳書から、visceralという言葉を使うに至った経緯が書かれている箇所を引用しよう。
映画のこの要素についてのブアスタィン(Boorstein, J. 1990)の説明は、私のいう本能レベルとほとんど同じである。非常に良くマッチしていたので、私は科学論文で使っている「反応的(reactive)」という用語の代わりに彼の用語を使うことにした。「反応的デザイン(reactive design)」というフレーズは意図を正しく表わせていなかったが、ブアスタィンの本を読むや、少なくともここでの目的にとって、「本能的デザイン(visceral design)」というフレーズがビッタリなのは明らかだった。(だが、私はいまだに科学論文では「反応的」を使っている)。
(引用者注:なおBoorsteinをNormanがBoorstinとミススペルし、訳書でもブアスティンとなっていたので、名前の読み方は正しくしておいた)
なお、この「本能的」ないし「反応的」レベルは認知ではなく、感情(affect)であり、覚醒と関係が深く、接近と回避という神経の賦活(activation)と抑制(inhibition)というメカニズムに支配されている。その出力はすばやく、また単純である。その意味では本能的でも反応的でもいいと言えるだろう。
次の「行動的」と「ルーチン的」については、十分に学習された行動であり、ほとんどの運動技能の大元になっているという点で意味内容は一致している。『エモーショナル・デザイン』でも、潜在意識的に運転したり、熟練したピアニストが考えながら演奏する例をあげられており、ここでも内容的には同じと考えられる。
「内省的」については表現が変わっていないし、内容も同一である。
ということで、第二の疑問については、もともとはreactive, routine, reflectiveという表現であったものを、NormanがBoorsteinの著作に影響され、visceral, behavioral (ここについては理由は不明), reflectiveとしたことが分かった。さらに、両方の書き方は同じ意味あいであって、アカデミックな場では前者を、一般的な場では後者を、と使い分けていることも分かった。
第一の疑問について
第一の疑問である三階層の根拠については、Ortony et al.にもNorman et al.にも書かれていなかった。どちらの論文でも、いきなり3つに分ける話から始まっている。
考えてみると、Normanの話にはこういう直感的洞察にもとづくものが多い。有名な7段階モデルもそうだ。常識的に考えればきわめて了解性が高いのだけど、実証的な証拠を積み重ねて、というアプローチではない。まあ常識的妥当性が高い、ということで世間に受け入れられているのだろう。変な実験的証拠を沢山集めるより、一般読者が了解的に納得できるような話を構築していくというアプローチの方が適したテーマというのもある、ということだろう。
そのような次第で、三階層のモデルにするという心理学的な根拠に関する第一の疑問については、その解答がきちんと明示されておらず、どちらかというと直感的なトップダウンなモデルだった、ということが分かっただけである。
追記
この三階層のモデルには、Freudのエス(イド)、自我、超自我という人格の構造の話を連想させるところがある。また、もう少しNormanの意図に近いところでは、Rasmussenの三階層モデル、つまり、技能ベース(反射的な感覚的行動)、規則ベース(行動規則にもとづくルーチン的行動)、知識ベース(まだ規則が作られていない場合の思考にもとづく行動)と極めて類似したものであることも分かる(ただし、Normanはこのことについては触れていない)。
もっともRasmussenは感情(affect)のことは論じず、認知(cognitive)なことだけでモデルを構築している点が、スタンスとして異なっているといえる。さらにNormanの考え方にはJordanのPleasureの四分類、つまりPhysio-pleasure, socio-pleasure, psycho-pleasure, ideo-pleasureとの類似性があることを彼自身が指摘している。
以上で今回の旅は終了である。読者諸氏に多少とも参考になれば幸いに思う。