HCDにおける形式主義

HCDで重要なのは、設計した人工物でユーザのQOL (生活の質)を高めることだ。何を調べることに意味があるのかを考え、それをどう明らかにすれば本質的な理解につながるのかを考えなければならない。

  • 黒須名誉教授
  • 2026年1月13日

HCDにおける本質

HCDにおいて本質的に重要なのは、設計した人工物によってユーザのQOL (生活の質)を高めることだが、そのことを吟味するには、そもそもユーザのQOLとは何なのか、どうすればQOLが高まったといえるのか、ということをまず論じておかなければならないだろう。

ユーザという立場における人間にとってのQOLとは、彼らが持っているニーズが満たされることだ、と言ってしまうこともできるだろう。それは、たとえば腹が減っている人に対して食物を提供することによって達成される。しかし、美味しいものが食べたいという欲求をもっている人に、醤油をうすめただけの汁に入ったうどんを提供しても達成されることはないだろう。ステーキを食べたいと切望している人を、むりやり鰻屋につれていっても十分に達成されることはないだろう。糖尿病で治療を受けている人にプリンアラモードをごちそうしようとしても、よろこんではもらえないだろう。要は、腹が減っている人に対しては、彼・彼女が食べたいと思っているものを、彼・彼女が食べたいと思っている品質で、しかも適切な量で提供しなければならない。つまり、QOLは、ユーザが抱いているニーズを的確に把握したうえでなければ満たすことができないのだ。その的確さは、質的にも量的にも、タイミング的にも、彼らの抱いている期待に沿うものでなければならない。つまり、ユーザの特性や利用状況に適合した人工物を提供することがポイントとなる。

このことはHCD関係者にとっては、改めて言われなくても分かっているはずであろうことだが、ちょっと注意していないと、しばしばクライアントの期待に応えるだけで、ユーザの期待に沿っていない結果になってしまうこともある。その意味で、HCDが商業的活動においても、公共的活動においても留意しなければならないのは、HCD関係者に話をもってきたクライアントを越えて、彼らの先にいるユーザのことをきちんと把握することである。

形式主義

ものごとの内容よりも形式(手続きや構造、規則など)を重視してしまうことを形式主義というが、それは中世ヨーロッパのスコラ哲学について、しばしば指摘されてきた。スコラ哲学の目指したところは、キリスト教神学とアリストテレス流のギリシャ哲学の論理とを融合させようとしたもので、神学的内容を論理的に裏打ちしようとしており、信仰の理論化という点で当時としてはそれなりに妥当なものだった。

そこでは厳密な論証の方式が発達し、たとえばクエスティオとよばれるやり方では、まず問題提起を行い、次いで反対意見を並べ、それから聖書などの権威を持ち出し、それにもとづいて自分の論理を展開し、最後に反対意見を潰していく、という流れを取った。これなどは、現在の科学論文の形式にも近いものであり、適切に用いられれば適切な結論を導くはずのものだった。

しかし、論理的論法を機械的に用いたり、権威に追随してしまうような動きも派生してしまい、そもそもの問題提起に愚問としか思えないようなこと(たとえばアダムには臍があったのか)を取り上げたりすることになり、本来目指したはずの本質的な方向から逸脱するような結果となってしまった。

HCDにおける形式主義

こうした形式主義と似た動きは、残念ながら、今日の研究活動や実践活動においても見ることができる。HCDの分野でいえば、そもそもそのことを調べてどんな意味があるのかが分からないような発表が行われたりしている(差しさわりがあるため事例については言及しない)。つまり、アダムの臍のようなテーマについての研究発表や活動報告が行われてしまうことがある。

また、最近はちょっと数が減ってきたものの、すぐにISO 9241-210のプロセス図を出してきて、自分たちのやったことをその図にあてはめ、それだけでいかにも研究や活動が人間中心的であるかを示そうとすることもあった。ユーザ調査においても、通り一遍の質問項目をならべて、さあユーザの調査を実施しましたといわんばかりの報告もあれば、ユーザビリティ評価において、ユーザビリティテストを機械的に実施するような報告もある。

HCIやHCDの領域で統計的手法が用いられるようになって久しいが、最近の統計パッケージが様々なパラメータを計算してくれたり、図表を出してくれるからといって、機械的にそれをコピペし、あるいは文章化して、さも分析が行えたかのような顔をしている発表もしばしばみかけるようになった。

どうすべきか

こうした風潮は、その分野の空洞化をもたらすので強く避けなければならない。いいかえれば、本来、何を調べることに意味があるのかを考え、それをどう明らかにすれば本質的な理解につながるのかを考えるようにしなければならない。特にHCDは、ユーザの生活の質(QOL)の向上を目指しているはずだ。その研究や実践活動が、どのような意味合いでユーザの生活の質の向上につながってくるのかをきちんと反省し、それにふさわしい方法を選択し、論述をしなければならない。

HCD-Netの研究発表会が盛んになってきたことは喜ばしいことであるが、ぜひとも本質的な理解が何なのか、何がどのようにユーザにとってありがたいことなのか、という視点を忘れないようにしていただきたい。

その昔、ルネサンス期のエラスムスは、ad fontes (源泉へ)という精神の重要さを説いた。まさにこれである。アド・フォンテス。HCD-Netの将来はこの点にかかっているといえるだろう。

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