あらためて人間中心設計とは

ヒューマニティこそがHCDの目指すべき道だ。性同一性障害の人の風呂の問題や、アメリカ帰還兵のPTSDの問題の解決は容易ではない。ただ、機器や制度の設計によって解決に近づける努力は必要だ。そうしたスタンスこそ僕はHCDと呼びたいのだ。

年頭所感

2015年の年頭に「UCDとユーザ工学」という原稿を書いてUCDという概念の適切さを力説したのだが、それではHCDという概念は死滅すべきと考えているかというと、そうではない。そこで、2016年の年頭所感として、HCDは本来どうあるべきかということについて考えてみたい。

ヒューマニティこそがHCDの目指すべき道

ヒューマニティ、つまり人間性を目指した活動はHCDが目指すべきものだと思う。ラスキンの『ヒューメイン・インタフェース』という本があるが、これはヒューマン・インタフェースを人間にとってより適切なものにしようというものだったように思う。

また、人間中心という概念は、『人間中心設計の基礎』の第一章で触れたように、クーリーの提唱したもので、機械中心から共生的な人間中心の社会の構築を目指したものだった。そのいずれにおいても、ここでいうヒューマニティを中心に据えたHCDのスタンスに共通するものがある。

僕がHCD-Netの活動をスタートしたときのHCDの解釈も、ユーザビリティを向上させてユーザにとっての利便性を確保しようという点にあったので、最近のようにHCDでビジネスを支援するなどという言い方が出てくるとは夢にも思っていなかった。もちろん資本主義経済の世の中であれば、ビジネスは社会を支えるもので、その基本となる活動として重要ではあるが、それは別にHCDがサポートしなくてもいいだろうと今でも考えている。まあ、バズワードとしてのUXについても同様である。

事例

では、どういうことがヒューマニティの確立のためにHCDが目指すべきことかというと、それはUCDとは異なり、作り手と使い手という二項関係の中においてではない。ここで二つの例をあげよう。

性同一性障害の人のトイレや風呂の問題

一つは、性同一性障害の人のトイレや風呂の問題である。トイレや風呂は多くの場合、生物学的な性別によって区分けされているが、性同一性障害の人達は、どちらに入るべきかで困惑することが多いと聞く。

トイレについては、駅などに誰でもトイレというものがあるし、現在では少なくなったが混浴の風呂場もある。しかし、大多数のトイレや風呂は生物学的な性別にもとづいて設計されている。

この解決として、すべてのトイレや風呂を共用にしてしまえばいいという考え方もありうるが、社会全体としての抵抗感は強いだろう。こうした中で、どのようなトイレや風呂を設計すればいいか、また社会の意識をどのようにもっていくための制度設計をすればいいか、といったことは設計の問題と考えることができるだろう。

アメリカ帰還兵のPTSDの問題

もう一つは、アメリカのイラク帰還兵に見られるようなPTSDの問題である。この問題は、ベトナム戦争でも、アフガニスタンでも見られたものだが、帰還兵たちはなかなかアメリカの平穏な暮らしに溶け込むことができず、戦場との落差の大きさが一つの原因となって、その後遺症に苦しんでいるようだ。何本かこれをテーマにした映画も作られている。

たしかに、アメリカは自国内で戦争が勃発している訳ではなく、兵士たちは平穏な母国から苛烈な戦場へと送り込まれ、そこで命を賭して戦ってくる。これが第二次世界大戦下の欧州各国のような状況であれば、前線から復帰しても、そこはまだ戦禍に苦しむ場であり、周囲の人達と気持ちの通じる部分があっただろう。

この問題を精神医学や臨床心理学の扱うべきこととだけ考えていたのでは、どうも十分ではないように思う。単に思いつきレベルで申し訳ないが、前線からの帰還兵を一気に通常の社会に送り返すのではなく、キャンプで十分なリハビリをさせる、というようなシステム設計も考えられるのではないかと思う。

人間のためのHCD

このような問題の解決はもちろん容易なものではない。ただ、機器やシステムや制度の設計によって、少しでも解決に近づけようとする努力は必要なことだと思う。そうしたスタンスこそ僕はHCDと呼びたいのだ。そしてHCDとUCDとは、異なる目標をもちながら共存すべきものだと考える。

公開:2016年1月7日
著者:黒須教授

分類キーワード: