当事者からみたユニバーサルデザイン (2) 片目
最近、日常生活をする上で一番困っているのが、右目の視野の制限である。両眼視差がなく距離感がつかめなくて困るのが階段や段差である。段差を知覚させるマーカーや手すりのない階段は恐怖でしかない。
不便なことは色々あるが
最近、日常生活をする上で不便なことには事欠かなくなった。まずは膝関節の痛みや腰痛。そのために速く歩いたり、長時間歩くのがしんどくなったりするし、前かがみで何かをしていると腰がつらくなる。しかし、これらは障害としてユニバーサルデザインの配慮を受けるほどのことではない。せいぜいが階段の手すりを利用することが多くなった程度のことだ。しかし、たまに手すりのない階段があったりすると、コケないために慎重にならざるを得ないから、この程度のことでもユニバーサルデザイン的な配慮がしてあることはありがたい。
反応時間が遅くなってきたこと。これなどは自動車運転での危険回避行動に影響するが、ユニバーサルデザイン的配慮というよりは、自ら車を運転しないようにすることで危険を避けることはできる。もっとも、全自動運転車が登場してくれれば、再び運転の楽しさを味わうことも可能だろう。
短期記憶の能力が低下したり、Tip Of Tongue現象(長期記憶の内容が喉元まででかかっている状態)が多発するようになったこと。これは確かに困る。予定を記録しておくことなどについてはGoogle Calendarなどの助けを借りることができるが、記憶力の低下は、まあ、致し方ないことなのだろう。
この他にもまだ色々とあるが、書いているときりがないので、ここでは一番困っている問題、網膜中心動脈閉塞症の後遺症についてだけ書くことにする。
網膜中心動脈閉塞症による右目の視野の制限
網膜中心動脈閉塞症とは、生活習慣病の結果、どこかの血管にできた血栓が、網膜中心動脈に詰まることにより、網膜の視細胞に酸素が行き渡らなくなって視細胞が死滅し、その部分の視覚が欠落してしまうことである。
僕の場合、2014年4月のある朝、目が覚めてみると、部屋の景色が暗くて見えづらくなっていることに気がついた。自分なりに観察してみると、右目の景色が真っ暗で、いや、ただの真っ暗闇ではなく、暗い背景に大きな網目状の黒い模様が見えていて、妙な模様だなあ、ちょっと面白いのかも、という気楽さもあったのだが、しかしながら片目しか見えていないのは不便なので、近所の眼科に出かけていった。その時は、これがどのような影響をもたらすのかについて無知で、結構気楽なものだった。その眼科では、散々待たされたあげく十種類くらいのいろいろな装置で検査をされて「うーん、これは大病院にいった方がいいかも」という話になった。
それで紹介状をもって大学病院の眼科にでかけたのだけど、その時にはすでに発症から何時間もたっていた。最初から大学病院を訪れていればよかった、とは後悔先に立たずの典型例である。眼科ではすぐに目星がついたらしく、血栓を溶かすための点滴を受けたが、右目に見える黒っぽい模様はそのままだった。血流が止まっているわけだから点滴の薬が患部に回る可能性も低かったのだろう。その後、血栓を溶かすという内服薬をもらって通院することになったが、わずかな視力回復はあったものの、現在も左目だけの片目状態が続いている。
発症から10年がたった現在、右目の視野は大きく制限され、中心からちょっとずれた場所が視力0.2くらいで、もちろん文字は読めない。それ以外の場所はぼんやりと明暗が分かる程度。さらにその外側の視野はグレーになっている。網膜の視細胞は再生しないというので、もうこれ以上良くなることはないのだろう。
両眼視差による遠近感の喪失
この状態がどのように不便かというと、まず距離感の手がかりである両眼視差が有効にならないことだ。もちろん、左目単眼でも、水晶体の調節による手がかり(注1)は使えるし、線形遠近法などの心理的な手がかり(注2)は有効なのだが、両眼視差と両目による輻輳の手がかり(注3)がなくなってしまった。
注1 水晶体の調節による手がかり: 視対象が近い場合にはレンズである水晶体が膨らみ、遠い場合には水晶体が薄くなるが、その引っ張る筋肉の緊張状態を知覚して成立する奥行き知覚の手がかり。
注2 線形遠近法などの心理的な手がかり: 同じ大きさのものが、近くでは大きくなり、遠くでは小さくなるということから、逆に大きければ近く、小さければ遠くにあるとする奥行き知覚の手がかり。
注3 両目による輻輳の手がかり: 近くにある場合は、左右の目がより目になり、遠くにある場合は平行になるが、その筋肉の緊張状態を知覚して成立する奥行き知覚の手がかり。
そして、右側の視野が失われてしまったことも不便である。顔の右側でありながら左目でカバーできる部分も多少はあるので、視野の真半分がグレーアウトしたわけではないが、右目で見ているはずの部分、つまり視野全体の1/3程度が見えなくなってしまっている。
このため遠近感がわからず、たとえば宴席でビールをコップに注ごうとすると、とんでもない場所、つまり近すぎる場所か遠すぎる場所にビールをかけてしまうことになる。今は経験知によって、まずコップのへりにビール瓶を当てて、位置を確認してからやることにしている。駅の雑踏などで右からくる人の姿を確認できないため、衝突してしまうこともある。両目とも黒目はちゃんとしているように見えるため、他人からは、右目に障害があるということは分からない。
階段や段差における危険
もっと困るのは階段や段差である。両眼視差がこんなに有用なものだったのだ、ということを思い知らされた。地面をずっと見続けていれば、運動視差(注4)によって奥行きの差分を知覚することも原理的には可能なはずだが、どうも運動視差の手がかりはそれほど強力なものではない。
注4 運動視差: 観察者が移動している車などに乗っていると、近くのものほど速く後方に遠ざかり、遠くのものほどゆっくりと遠ざかってゆくことから、後方に物体が移動する速度を知覚して成立する奥行き知覚の手がかり。
たとえば路面にある凹凸、ちょっとした段差、階段などは大きな障害となってしまう。たとえば図1にあるような階段。これは北千住駅の千代田線乗り場におりる階段である。他の部分では縁に色のついたマーカーが設置されているので、それを手がかりにして階段を降りることができるのだが、図の手前から3つ目の段は、金属プレートが張ってあり、そこに申し訳程度にテープが貼られている。毎週利用する階段なので、それがあることは分かっていても、ここだけは要注意である。かならず手すりを持ち、慎重に足を下さねばならない。もっとひどいのは、JR熱海駅のホームから通路に降りる階段で、そこには縁を示すマーカーがない。ただのコンクリートの階段になっている。だからわずかな明暗差を利用して段差の有無を確認しなくてはならない。
エスカレータの場合には規格があるのだろう。どこに設置されたエスカレータでも黄色い線が段の端につけられている。これはユニバーサルデザインとして適切である。もちろん図1の他の段のように、縁にカラーバーを付けるのもいい。しかし、段差を知覚させるマーカーがまったくない階段というのは、さらにいえば、それにも関わらず手すりすら用意されていない階段というのは恐怖でしかない。レストランなどにはそうした例が結構ある。
これまでに段を踏み外して階段から転落したことが3回ある自分には、こうした配慮のない施工をする業者、いやこれは設計段階の問題なのかもしれないが、それには腹が立つ。ともかく下手したら怪我につながるような危険性については、関係者の意識向上を望みたい。
移動手段の制限
このようになってしまってから、自動車の運転には気を付けるようになった。しかし、右後方の視野が確認できないこと、前車との車間距離が把握しづらいことから、遅まきながら一昨年8月に免許証を返納した。海技免許も更新しなかった。それまでの間、事故を起こさなかったことは幸いではあるが、大好きな釣りにゆく機会がほぼなくなってしまった。釣りというのは荷物が多いし、バス停のある場所で釣りができるとも限らないので、車がないととても不便なのである。まあ、この点についても、すでに書いたような全自動運転のできる自動車が登場してくれることを期待している。そうした技術開発もユニバーサルデザインの一環だろうと考えている。