当事者からみたユニバーサルデザイン (1) 色覚障害

筆者はいわゆる色盲である。自然物は致し方ないとしても、人工物については、色覚障害者のことを考えて対応してもらいたいものだ、とつくづく思う。

  • 黒須教授
  • 2024年12月19日

はじめに

障害者というとすぐに頭にうかんでくるのが車いす利用者のことだろう。たしかに、車いすの利用についてはいまだにバリアが多く残っている世の中ではあるが、障害にも軽重や方向性の違いがあり、車いす利用に限らないということを理解する必要がある。ある意味では誰でも大なり小なり障害をもっていると言われるし、特に高齢になればその程度は増してくる。車いす利用者や白杖をもった視覚障害者は外見上の特徴から特に公共の場では目につきやすいが、自宅や療養の場から外出できない重い障害を持った人もいれば、加齢によって軽い障害がでてきた人もいる。

それらを一様に語るわけにはいかないので、ここでは、筆者の持つ障害の観点から世の中のユニバーサルデザインのあり方について考えてみたいと思う。筆者の持つ障害というのは軽いものばかりではあるが、それでさえ「これだけの」不便があるということを描くことで、それ以上重い障害に苦労している人々のことに思いを致すことができれば、というわけである。

色覚障害の実態

筆者はいわゆる色盲である。これはしばしば色覚異常とも呼ばれるが、この言い方にはちょっと違和感と不快感を覚える。え、私は異常者なのですか、ということだ。異常というのは「常と異なる」ということで、それ自体に否定的な意味合いはないのだが、異常人格とか異常性格という表現になるとネガティブなニュアンスをもつことになる。異常者という表現も同様で、「近所に障害者がいます」といえばああそうですか、となるが「近所に異常者がいます」となると110番通報することになる。異常という言葉が否定的なニュアンスを帯びてしまっている以上、色覚障害を色覚異常と呼ぶのは適切ではないというべきだと考える。

もちろん、統計的な意味で頻数が少ないから「常」とは異なるという意味で「異常」という言い方がされることも分かるし、短絡的に「異常者」という表現を想起することが適切でないという意見も理解できる。しかし、やっぱりなあ…、というのが正直な気持ちなのである。

ともかく色覚障害が分かったのは小学校の時期。昔は小学校入学の時点で、身長体重などの測定とあわせて色神検査(色覚検査)を施行していた。いわゆる石原式検査というやつで、色のついた粒粒がたくさんあって、そこに数字が見えるかどうかで判定するという、なかなかアイデアに満ちた検査法だった(図1)。その検査で「はじかれた」のである。幼稚園や小学校での図画の授業で絵を描いていると、「お宅のお子さんはユニークな色使いをしますね」と言われたことがある。だから何かが周囲の子供たちとは違っているのだろうと思っていた。

親に「何がおかしいの」と聞いて、色弱というものだと言われ、以来、自分は色弱というものだと思っていた。赤と緑と茶色、特にそれらが濃い場合には判別が難しく、おなじような色に見えたため、ああ普通の人たちにはこれは違って見えるんだろうなあ、ちょうど筆者にとって青と黄色ほどの違いがあるんだろうなあ、と思っていた。

周囲の子供たちも、筆者が色弱だと知ると、「ねえ、どんな風に見えるの」と聞いてきた。クオリアに関する本質的な質問である。しかし答えようのない問いでもある。「ぼくには赤も緑も茶色も同じように見えるんだよ」と説明すると、「ふーん」といってわからないまま会話は終わる。学校が変わるたびにその繰り返しだった。

図1 石原式検査の例(石原式 色覚検査表 II 国際版 38表 HP-1205A : hp-1205a : 鈴盛オンラインショップ – 通販 – Yahoo!ショッピング)

赤緑色弱という筆者の理解が壊れたのは、大学院に入ってからだった。自動車免許を取得するときのことだった。やはり石原式を使って検査をした試験場の人は鷹揚な人で、「でも、信号はわかるんでしょ」と聞き、「はい、わかります」と答えてそこをパスすることができた。

ボートの海技免許をとるときは、試験場の近くの病院に行ったのだが、そこでは、医者が勝手に「えーと、色覚異常はないですね(チェック)」といいながら、何も検査をせずに正常色覚と判定してくれたのだ。そこは試験場であるマリーナの人に紹介された病院だったが、もしかすると漁業関係者のなかにも色覚障害者が混じっていて、それを摘発してしまうと彼らが生業につくことができないから、お情けでそうした判定法をしていたのではないか、と思っている。実際、船の右舷と左舷を区別するためには赤と緑のライトが使われているが、自動車ほどの混雑は海の航路にはないし、右側通行を守っていればほぼ問題はないし、そもそも昼間に操業しているなら視認で衝突を回避することもできるからだ(図2)。

図2 右舷灯と左舷灯(Partools 航海灯 右舷灯 左舷灯 船舶用品 停泊灯 12V 24V 兼用 LED ライト内蔵 タイプ 一体型 ASSY交換 : 0797-007286 : パーツールズ Yahoo!店 – 通販 – Yahoo!ショッピング)

でも、やはり気になって東京医科大学に精密検査にでかけた。そこではアノマロスコープを使い、精密検査をしてくれた。結果は赤色盲ということだった。色弱ではなかった。完璧な色盲だったのである。

まあ、その頃にはいろいろな経験を積み、濃い緑の葉のなかに点在する椿の花が見つけにくいこと、紅葉といっても、まぢかに赤くなった葉をみれば区別はつくのだが、集合的に景色として見た場合には、楽しむどころのものではなかったことなど、色盲としての不便はひととおり味わっていた(図3)。思い返せば、小学生の頃、電気工作に興味を持ち、解説本に掲載されている実体配線図を見ながら5球スーパー(編注:真空管ラジオ)を組み立てて、見事に失敗したのは、本に掲載されている配線ケーブルの色を間違えたからではないかと思っている。また抵抗のオーム値を知るために抵抗にはカラーバーが何本か印刷してあったが、それは全く分からなかった。それで毎回テスターのお世話になっていた。

図3 満開の椿(満開の椿 – No: 26093143|写真AC)

車を運転するにしても、歩行者として歩いているにしても、信号機がわからなければ事故ってしまう危険がある。ただ、無意識的な習慣として、車列や人込みの先頭にならなければ他の車や人に追随していけばいいし、そもそも信号機のなかでどれが光っているかを知れば、それで赤か緑かを判別することはできたから実害はなかった。考えてみれば変な話で、そうやって識別するやり方があるのに、自動車免許では色盲はだめで、歩行者は関係なしとする根拠が不明瞭だった。色盲の筆者からすれば、そういう意見になるのだった。ま、もちろん交通量の少ない船の場合の夜間航行は別であるが…したがって、怖いから夜間に海にでたことはない。

こんな具合で、なんとか現実世界に適応してきた自分ではあるが、やはり一種のくやしさはある。この世は色彩に満ちている。ほとんどの人たちはそれを楽しんでいる、というよりは当たり前のものとして享受している。それが筆者の場合には生まれたときから奪われている。なんと不公平なことなのだろう、と。生まれつきの障害を持った子供の話がテレビなどのドキュメンタリーで放送されるのを見ると、ああ、と思う。その大変さは筆者の色盲に比べれば雲泥の差があるが、それでも「生まれてこのかた、正常の人と同じような生き方ができない」という歯がゆさや悔しさには共通するものがあるだろう。

まあ、そんな筆者ではあるが、大学院では、財団法人日本色彩研究所に嘱託研究員として入所した。「色盲だけどいいんですか」と紹介してくれた教授にきくと「ま、そういう人もいた方がいいからね」と訳の分からない理屈で入所が決まったのである。聞くところによると、当時、色彩学の大家として知られていた東京教育大学の金子隆芳先生も色覚障害であったことを知り、何か親近感を覚えた。まあ、色彩研究所での仕事も、視感測色をしたりする仕事は別に担当者がいたし、主に多変量解析を使って色彩動向調査をやったりすることが主だったので、ほぼ問題にはならなかった。

ただ、大学を受験する当時は、薬学系、医学系などへの進学はできないと言われ、道を閉ざされたような気がしたが、あまり興味がなかったので問題にはならなかった。しかし、後年、持病が増えて薬をたくさん飲むようになって「赤い薬は毎朝一錠」などと薬局で言われると困ったことになった。名前でいってほしいと思った。

ともかく、日本人では男性の約5%、女性の0.2%が先天赤緑色覚障害だとされているが、小学校での強制的検査がなくなったため、色覚障害を自覚せずに暮らしている人、特に若い人たちは大勢いるのではないかと思う。5%ということは20人に1人である。ものすごい数である。そうした人々は色彩の弁別ができないまま生活しているわけで、なんとか生活できているから大きな問題にはならないのかもしれないが、色覚障害であることを知ってか知らずしてか何らかの苦労をしていることはあるものだと思う。

ユニバーサルデザイン

色彩については、ユニバーサルデザインの考え方からNPO法人カラーユニバーサルデザイン機構: CUDO(NPO法人 カラーユニバーサルデザイン機構 CUDO – 誰もが自分の色覚に誇りを持てる社会に)という組織が2004年に設立され、活発な活動を行ってきている。詳しい活動内容については、そのサイトをご覧いただきたい。CUDOのおかげで改善されたことは多いが、それでもまだまだ色覚障害に理解のない表示や機器が多くでまわっている。

一つの例は、同じものが赤か緑に発光するダイオードの利用である(図4)。これはもう全廃すべきものだと思っているのだが、たとえば充電器などで充電中と充電完了を区別するために色の変化を使っているわけだ。これが分からないものだから、こうした機器に充電するときは一晩通電するようにしている。一晩やればちゃんと充電できているだろう、という考えである。

図4 赤と緑に発光するダイオード(https://eleshop.jp/)

また、地下鉄の路線表示板やグラフ表示などでカラーコーディング、つまり色によって種類分けを区別しているものがあるが、これも分かりにくい(図5、図6)。彩度が高ければまだ分からないでもないが、低明度やオフホワイトで彩度が低いものは区別がつきにくい、というかはっきりいってわからない。また面積効果もあるので、グラフでも多少幅のある棒グラフはまだしも折れ線グラフなどになっているととても判別がしにくいのだ。グラフィックデザイナーにも、学会発表をする研究者などにも、このことが分かっていない人は多いようで、これについては公共物ならまだCUDOの目にとまるだろうからマシであるが、個別の学会発表や論文などになるとどうしようもない。

図5 東京メトロと都営地下鉄の地下鉄路線図(東京都交通局)
図6 折れ線グラフの例(図録▽主要国における人口高齢化率の長期推移・将来推計 (honkawa2.sakura.ne.jp))

秋の紅葉のシーズンになってきたが(図7)(編注:黒須教授からの原稿受領は2024年10月)、自然物は致し方ないとしても、人工物については、色覚障害者のことを考えて対応してもらいたいものだ、とつくづく思う。何しろ男性で5%なのだから。20人に1人は苦労している人がいるのだから。

そもそも人工物に赤と緑の組み合わせを用いることが不便益の元である。制度を決めた当時の人たちは、補色だから区別しやすいだろうとでも思ったのだろう。しかし補色を使うなら青と黄色の組み合わせを使ってくれたなら面倒なことは起きなかったのに、と制度制定の初期の関係者の発想の貧困さには腹がたつ。まあ、今更青と黄色にすることはできないだろう。世界中に広まってしまっているのだから。僕はこれは人類最大の、といっても小さなことではあるのだが、愚行の一つであると考えている。

図7 紅葉の景色(天生県立自然公園の紅葉 (C)岐阜県観光連盟|紅葉情報2024 (jorudan.co.jp))