ユーザビリティやUXの行き着くところはどのような状態なのだろう。人々はどんな人工物に囲まれて生活しているのだろう。ひとつ新年にあたって、理想的な夢のような状態を考えてみたい。

日々、ユーザビリティUXの向上のことを考えているつもりだが、さて、その行き着くところはどのような状態なのだろう。人々はどんな人工物に囲まれて生活しているのだろう。10年先にはもっとマシになり、30年後にはとても良くなり、50年後には理想的な状態になっているのだろうか。ひとつ新年にあたって、理想的な夢のような状態を考えてみたい。

「安定した社会基盤」が大前提

まず最初に考えるべきことは政治や経済といった社会基盤の状況だろう。しかし、これはむつかしい。恒久平和などという言葉はあるが、それが世界的に実現することはまず考えられない。民族間の抗争や宗教観にもとづく争い、資源問題に端を発する摩擦、食料不足と過剰人口からくる争乱状況はまずなくなりそうにない。そもそも人間の心から怒りという感情が無くなることはない。そして、その過程で大量破壊兵器が使われることもあるだろう。

つまり社会基盤に関しては、安定した状態は局所的には成立するかもしれないが世界的な規模ではいつでもどこかに亀裂が発生していることだろう。場合によっては人権や人間の基本的権利という考え方にまで変化が起きてしまうかもしれない。そもそも地球上の全人口が夢のような生活を送れる可能性は、資源的にも政治システム的にも経済システム的にも、全く保証はないのだ。いや、それでは夢というお題から逸れてしまいそうではあるが、基盤となる社会システムについては楽観はできない。

そうなると、地球規模で考えた場合、幸運にも局所的に安定した状況にある地域に住んでいる、さらに幸運にも局所的にそれなりの生活水準を維持している人にとってどうなるかを考えてみることになる。多分、そうした人々は地上の全人口の10%かせいぜい20%くらいなのではないだろうか。いや悲観的すぎるかもしれない。新年にあたって大盤振る舞いをして(まったく適当な数値だが)50%くらいいることにしてみよう。

自動化と情報化

さて、そうした人々と人工物との関係はどうなっているだろう。企業の経営者もエンジニアもデザイナも100%、ユーザビリティの重要性を理解し、UXの意義を理解したとすると、どんな生活が現出するのだろう。インタフェース技術が長足の進歩を遂げたとしたら、どんな状況が生まれてくるのだろう。

ICTはそれなりにどんどん発展進化を遂げているだろう。そうなると人々は、今考えられているものよりも数段レベルの高いスマートハウスに居住することになるかもしれない。しかし、意図推定や行動予測などにもとづいたインタフェースはどこまで普及するだろう。ジェスチャインタフェースなんかも普及しているのだろうか。やはりうーむである。

もしかしたら、その反対に、人間は楽ができるシステムから一転してある程度の面倒を好むようになっているかもしれない。楽ができるということが、身体的にも精神的にも負担のかからない生活だとすると、結果として足腰が弱くなり、記憶力が低下し、といった具合に、基本的な能力が低下してしまうかもしれないからだ。人間はある程度の負荷のあった方が健康な生活を送れるという考え方からすれば、不自由者にはそれなりの支援が必要であるとしても、一般の健常者には、自分で考え、自分で記憶し、自分で学習し、自分の意志で判断し、自分で動くことが好まれるようになっているかもしれない。

もちろん、自分の持っている自由度を上げるためには、余計と思えることは自動的に処理して欲しいと思うだろうから、日常生活の中の繁事である掃除や洗濯や調理やゴミ捨て、介護などの仕事についてはもっと楽になる方向に進むだろう。医療も進歩するだろう。満員電車での通勤や通学も、結局は情報処理ではないか、という観点から見直され、業務システムや教育システムは大きくかわることだろう。政治における意志決定や意見集約の手法も進化するだろう。情報生活においてもメディアの非物質化の傾向は強まって、CDやDVD、書籍といったものは博物館や図書館に収蔵されるようになり、人々は現在よりももっと進んだメディアインタフェースをもつメディアリーダーのようなものを使うようになるだろう。情報検索インタフェースは進化し、データベース容量も膨大なものになるだろう。同時に個人情報秘匿の技術も進歩するだろうし、著作権保護についても進んだ方法が考案されるようになるだろう。税金の収納システムも自動化され、確定申告なんて必要ないような時代になるだろう。

ただ、コンピュータについていえば、キーボードは無くなりそうにないし、マウスも、うーん、無くならないだろうな。ただしコンピュータというものは概念的にも進化して、もっとバーチャル化が進むだろう。今のように個人個人がパソコンを保有しているような状況は過去のものになるだろう。いいかえれば、モノとして生活の中に残るのは、骨董品のような好事家や美術愛好家の対象物や大切な人からもらったプレゼントなど、つまりモノとしての価値が重要なものが中心になるだろう。

「知的水準の向上」の表と裏

このように自動化と情報化が進展し、人間は「わざわざ汗をかきに行く」アスレチックジムに見られるように、自らに適当な負荷をかけるようになるだろう。そして余った時間で自分の精神面や知的活動の面にも適当な負荷をかけながら、もっと考える時間を持てるようになり、人々の知的水準は向上するだろう。

ただ、表があれば当然裏もあるわけで、そうした技術を悪用しようとする輩はいなくならないだろうし、かれらの知的水準も大幅に向上するだろう。となると、表と裏のいたちごっこは何時になってもなくなりそうにはない。そして裏の心性の持ち主が権力を志向するとしたら、それこそ『1984年』のような話にもなりかねないが、さて、それは夢といっても悪夢の話なので、ここではこのくらいにしておこう。ただし、この夢想の大前提となっていること、つまり、ある限定された地域に居住する、そこそこの水準の生活をしている人たちの暮らしというものが、そうした限定詞をつけて成立するという前提が崩れたとしたら…。いや、それはまったく新年向きの話ではなくなってしまうので、いかに非現実的であろうともここでは強引に幸せな未来を夢見るだけで幕を引くことにしよう。

公開:2015年1月6日
著者:黒須教授

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