失われる職域

コンピュータの進歩によって仕事を奪われて「暇になってしまう」人々がでてくるのかもしれない。暇になる人というのは、Frey & Osborneのいうような職域による差もあるが、それとともに考慮すべきなのは個人の能力と志向性なのだと思う。

ICTの発達と「暇になる」人々

「未来を考えるシリーズ(たまたま連続しただけで、別にシリーズと銘打った訳ではないのだが)」の最後として、ICTの発達によって将来失われる職域について考えてみたい。ひと昔前には、コンピュータの進歩により人間は時間的な余裕ができ、余った時間でより創造的な仕事ができるようになるだろう、という楽観論が語られていた。しかし現実に我々の仕事は以前より楽になったといえるだろうか。たしかに手書きで書類を作成するよりはワープロや表計算で作成した方が効率的だから、その分、我々は時間的余裕を手にいれた筈である。しかし現実にはそうなっていない。単に労働の密度が高くなり、たくさんの仕事をこなすためにたくさん仕事をしなければならない状況になってしまったのが現実である。つまり、全体としてみれば社会の進展の速度が増しただけのことではないのか。いいかえれば、コンピュータの進歩によって余裕ができるという話は、社会全体の話であって、社会的要請のある人々は相変わらず忙しくしなければならない一方、コンピュータに仕事を奪われて「暇になってしまう」人々がでてくる、ということなのかもしれない。

この問題について、Oxford大学のFrey & Osborneの“The future of employment: How susceptible are jobs to computerisation?”という論文が話題になっている。この論文については、講談社の現代ビジネス「賢者の知恵」で紹介され、あちこちで孫引きされているが、改めて原文を読んでみた。その内容は、知覚や操作(手先の器用さ、手の器用さ、拘束された作業空間)、創造的知能(オリジナリティ、芸術的知識や技能)、社会的知能(対人的知覚、説得、他人のケア)というコンピュータリゼーションへのボトルネックを変数とした判別関数により、アメリカ労働省のO*NETから得た903の職業のうち、702種類を選定し、それがコンピュータ化されうるかどうかの確率を推定したものだった。その結果、輸送業、生産業、販売業などがコンピュータ化される可能性の高い職種であり、マネージメントやコンピュータ等のエンジニアリング、教育、医療、サービスなどが可能性の低い職種となった(図III)。具体的職種で、確率が0.99のものは、電話によるマーケット調査、手縫い縫製、時計の修理、写真処理、図書館の司書技術者、データエントリーなどであり、反対に確率が四捨五入して0.00以下のものは、レクリエーションセラピスト、緊急時管理者、職業セラピスト、ソーシャルワーカー、舞踏家、外科医などであった。その結論として、彼らは、スキルの低い労働者達は、創造的なスキルと社会的スキルを身につけるべきである、ということを書いている。

Probability of Computerisation
図III Probability of Computerisation
The future of employment: How susceptible are jobs to computerisation?” p.37より引用。

大量の失業者の問題

まあ、至極ごもっともな話ではあるが、注意すべきは、スキルの低い労働者が創造的スキルと社会的スキルを身につけることができるかどうかという点である。該当する労働者の多くにとって、それは大変困難なことだろう。とすれば、大量の失業者が生まれることになる。さらに、機械というものは輸出もされうる。それが発展途上国に輸入された場合、実に大量の人々が失業し、彼らは機械の減価償却費と運用コストによる生産単価よりも安い賃金で働く機会を得るか、あるいは路上にたむろするだけの存在になってしまうだろう。先進国や発展途上国を問わず、これらの失業者は現在の生活に当然強い不満を抱く。その結果は19世紀初頭にイギリスで起きたラッダイトのような反乱になるかもしれないが、ラッダイトの当時は紡織機という機械はまだそう数は多く無かった。だから攻撃対象として成立することができた。しかし現在、偏在したコンピュータやインターネットを破壊することはできない。やるとすればICTに関する研究組織やコンピュータを動かすエネルギー源(発電所など)になるだろうけれど、それすら分散してしまっているのでネオラッダイトは運動として盛り上がらず、単なる破壊的行動に陥ってしまう可能性が高い。

プロダクトやウェブにおける状況

さて、一般論はさておいて、技術の進歩が職域を奪った例は身近にも幾つか見つけることができる。ワープロ専用機やパソコンのワープロソフトの普及により、それまで清書作業を請け負っていた和文タイピストの職域はほぼ完全に姿を消した。デジタルカメラの普及により、いわゆるDPE屋さんという町中の店も姿を消しつつある。生き残り策として記念撮影など、(人間ならではの)撮影スキルの必要な場面で糊口をしのいでいる現状といえる。スーパーの支払いについても自動キャッシャーが続々と導入されていて、現在はまだ熟練した店員より時間はかかるものの、人間のキャッシャーの将来もどうなるかは分からない。

私見では、良く言われるようにルーチンワークは自動化されやすいが、それ以外でも内科の診断や法律的判断のようなパターン認識的職域も、これまでに集積されたビッグデータを処理すれば、人間よりもバランスのとれた診断が行えるようになる可能性があり、知的職業であった医師や法曹家の地位も危うくなるだろうと考える。研究を主とするアカデミアの人々は別にして、教育を主体とする教員や大学教授についても、科目によっては、その多くの部分がコンピュータ化されてしまうだろう。

それではHCDの観点からいろ市場のことを考えてみたらどうなるだろう。まず考えるべきことはクリエーターという人たちの考え出しているプロダクトの行く末である。Frey & Osborneはクリエイティブネスに光明を見いだしているが、たとえばスマートフォンタブレットなどの機能的飽和と、グーグルグラスの失敗などを考えてみる必要がある。アップルウォッチにしても、人体計測機能の削減によって機能的にはiPhoneとあまり変わらないものになり、超小型で操作性が悪いことを考慮すると、あまりヒットするようには思えない。要するに、プロダクトとして魅力的なものは、たとえクリエイティブ部門の人たちが関与しても、既に大方市場に出回ってしまっており、極端な言い方をすればプロダクトの時代は終わったのではないか、とすら言えるのだと思う。ハードウェアに限らず、ソフトウェアプロダクトにしても、サービスという観点についてはまだ可能性があるものの、OSにしてもオフィスソフトにしても、既に飽和状態に達している。マイナスを0にするという当たり前品質の向上は継続されねばならないが、今後のプロダクトが魅力的品質を持てるのかどうか、また、それに関与しているクリエーターが生き残れるのかどうか疑問に思っている。

またUX関係者の多いウェブの世界についても、フリーランスウェブデザイナという職業は無くなるという考え方もある。ともかく、フラットデザインのような見た目の新奇性が話題になるというのは、ウェブデザインの領域が既に飽和状況に達している証拠だと思う。要するに、クリエイティブとされている職種が全体として安全なのではなく、本当にクリエイティブな才能がなければ駄目だ、ということだと思う。

職域と個人の能力

要するに、Frey & Osborneのいうような職域による差はあるが、それとともに考慮すべきなのは個人の能力と志向性なのだと思う。たとえばエスノグラフィなどの調査技法は社会的スキルを必要とするからコンピュータに取って変わられる可能性は低いかもしれないが、その後のGTAやSCATやKA法などによる分析処理はどうだろう。アルゴリズムが明確になればコンピュータ化は可能であり、それらの技法において必要なアルゴリズムはある程度明確になっている。となれば、人間はインタビューや面接を行うものの、そのデータの処理は自動化されてしまう可能性もある。ユーザビリティ評価だって、インスペクション法は過去の経験をベースにしているから、それがデータベース化され、デザインガイドラインがアルゴリズムとして表現されれば、人間よりはるかに見落としの少ない問題発見ができる筈である。

そうした状況で生き残れるのは、洞察力のある観察者や当意即妙の問いかけのできるユーザビリティ関係者だけだろう。いわく、ソーシャルスキルである。そして前述のウェブデザインでも、類型化されたデザインの仕事はデザイナーの手を離れてコンピュータ化され、生き残れるのは真にクリエイティブな能力をもっているデザイナーだけになるだろう。やれUXだ、デザイン思考だ、と言っても、そこから本当に有意義な発想がでてこないかぎり、それは表面的な流行にすぎないことが明らかになってしまうだろう。


5月26日14時追記: 職種ごとのコンピュータ化される確率について、読者の方から、図書館司書(Librarians)は0.65で、0.99なのは図書館技術者(Library Technicians)ではないか、とのご指摘をいただきました。確認したところ、そのとおりでしたので訂正いたしました。ご指摘いただきましてありがとうございました。

公開:2015年5月25日
著者:黒須教授

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