広告の社会的意義と存在価値

広告には社会的意義と存在価値があるという教科書的な「正論」は本当にそうなのか。今回は、テレビCMが情報提供媒体として有意義に機能しているのか、という疑問に関して、私的な分析を行ってみた。

  • 黒須名誉教授
  • 2025年10月20日

教科書的な社会的意義

広告には、それなりの社会的意義があり、それゆえに存在価値があるのだという教科書的な「正論」があるが、本当にそうなのだろうか。広告は、商品やサービスの情報を伝えることによって消費者ひいてはユーザの経験の質を高めることに貢献しているといわれるが本当にそうなのか、メディア運営は広告という経済的基盤なしには存在しえないのか、総じて社会活動は広告なしには成り立たないのか、といったことについては、今一度考えなおした方がいいのではないだろうか。広告についてはちょっと前にも書いたのだが、今回、ちょっと違った角度から広告、特にテレビCMについて考えてみたい。

電通の「日本の広告費2023」によると、広告媒体全体のなかでテレビ広告のシェアは17.4%(約1兆6,000億円)で、インターネット広告の47.6%(約4兆3,000億円)には及ばないものの、いまだに相当な比率を占めている。テレビの広告は、若者離れの続くテレビというメディアを表現の場としており、またインターネット広告にくらべて制作費がかさむという欠点もあるが、それだけにそこそこの信頼感を得ているともいえる。

テレビCMの個人的分析

今回は、特にテレビCMが情報提供媒体として有意義に機能しているのだろうか、という疑問に関して、ちょっと私的な分析を行ってみることにした。要するに、広告されている対象が「視聴者である自分にとってどれだけ関連性があるか」、いいかえれば「刺さるか」ということを、実際のテレビCMについて評価してみたわけである。同じようなことは、インターネット広告についても、新聞雑誌などの広告についてもできるのだが、今回はテレビを取り上げてみたという次第。理由は単純で、テレビを見ているとCMが煩くてしかたないからだ。ちなみにインターネット、特にYouTubeの広告についてはadblockというサービスを購入して追い払っているから、問題は感じないで済んでいる。

今回は、テレビCMのうちでもスポット広告をとりあげてみた。また、時間帯としてはゴールデンタイムといわれる19:00-22:00ではなく、朝の出勤・登校時に相当するであろう7:30-8:00の間をとりあげてみた。チャンネルはテレビ朝日である。これも深い意味はなく、筆者自身が普段朝みているのがテレ朝であり、みている時間がそのあたりだからだ。ニュースや天気を知ることがテレビを見る主目的であることと、時計代わりにしている、ということもある。反対に夜のゴールデンタイムにテレビを見ることはあまりない。だから一般性は低いかもしれないが、今回の(個人的)調査の目的は、CMが視聴者にとってどれだけ関連性(relevance)があるかということを改めて調べてみることにあった。もちろん関連性というのは、視聴者のさまざまな属性や生活状況によって異なるはずだが、一人の視聴者としての自分にとって「CMがいかに無関係であるか」ということを確認したかったという理由があったのだ。自分にとってどうでもいいCMだらけなことに、いつも憤慨しているからでもある。普段、感じていることをきちんと確認してみたかった、ということである。

関連性の評価結果

結果は表のようになった。1列目は企業名、2列目は商品・サービス名、3列目は筆者の感想である。

2025.08.07 7:33
企業名商品・サービス名筆者の感想
NEXCO東日本はあ、そうですか。ま、結構なことだけど運転しない僕には関係ないな
味の素ピュアセレクトマヨネーズあっそう、でも何が違うの? 特に指名して買うほどのこともないな
New Balancenew balance何がいいたいの? スニーカーなんて、amazonで比較してから買うから、別にCMしてもらわなくてもいいんすけど
Hisamitsuエスカップ特に飲みたいとは思わないけど
求人ボックスいまさら就職しないし、関係ない
マグミット製薬マグミットK便秘気味だけど、もう別の酸化マグネシウム飲んでるから、いらない
首都高速株式会社ETC専用入口運転しないから関係ない
Kowaシンクロンコーワ大谷翔平共同開発って、大谷が何やったのさ、何に効くのかわからんし、いらないね
mercariHalloメルカリ、別に使わないし
同日7:39
企業名 商品・サービス名 筆者の感想
東京建物   これ、戸建てを建てるなら、って話か、もう持ち家してるし関係ない
セレモ   お葬式、もう関係なくなったけど、このCM、感じはいいよな
Samsung The new Galaxy Z Fold7 これ、一拍外した音楽が好きなんだよな、スマホは買わないけど
都道府県民共済   何なの、貯蓄しろってことか、別に関係ないよ
Sato ユンケル黄帝 呉れるんなら飲んでもいいけど、わざわざ買わないよ
Disney/ピクサー 星つなぎのエリオ 最近のディズニー、ダイバーシティだかなんだか知らんが、つまらなくなったなあ、もちろん見たいとは思わない
ソニー損保   車運転しなくなったから関係ない
同日7:54
企業名 商品・サービス名 筆者の感想
TOKYO interior   もうこれ以上家具を増やしたくないし
TOKYO interior NICOLA どうでもいい
ソニー損保 火災保険 もう火災保険は入ってるし、関係ない
VITALTECH ReD 血行促進繊維って、なんか怪しげだな、パス
motorola edge 60s PRO モトローラってつぶれてなかったんだ、へえ
クレヨンしんちゃん   もう飽きたし、見たいとは思わない
Kowa αチャージ これ、なんか不愉快
nissan アリア いまさら車買わないし
nissan ノートe-POWER 買わないよ
集英社 週刊少年ジャンプ 読まないし
traveloka   海外旅行はHISか、あとはネット検索だな、travelokaって何だかわからん
シーライクス   女性向けの就職サイトかな、ま、関係ないね
小さなお葬式   次に葬式するとしたら自分のか、ま、関係ないね
KEIRIN GIRLS KEIRIN 競輪てギャンブルじゃないのか、スポーツで攻めてるのか、関係ないね
NEW BALANCE new balance さっき見たし、スニーカー、比較してから買うから

これは、CMのUX調査のようなものであるが、自分でやってみて、これを数十人分集めてみたら面白いだろうな、と思った。いや、まとめるのが大変だけど、数百人くらいやってみれば、妥当性の高いCMの効果測定法になるんじゃなかろうか、とも思った。

漠然と感じていた僕のCM体験が、この表に如実に反映されていた。好意的な経験はセレモとSamsungのCMだけ、あとは不愉快に感じているか、関係ないと思っているかのいずれかだったからだ。まあ、テレビ朝日の場合、全日帯での関東地区での視聴者数は約140万人くらいらしいから、その中の1%でも好意的な視聴者や関心をもつ視聴者がいれば、それだけでも1.4万人。とすれば、99%からそっぽを向かれたとしても、それなりに売り上げや知名度向上には貢献する、というようにいえるのだろうか。だが、仮に1%だとしても、その限られた人々に訴求するために、残りの99%に不愉快な思いをさせたり、うるさいなあと感じさせたりしてもいいのだろうか。ちょっと倫理的に不適切なような気もするのだが。

テレビの社会的意義については、番組についても言いたいことはあるのだが、個人的には午前中のテレビ朝日の番組は大方まともであると思っている。つまり、番組的には社会的意義はあると思っている。

筆者の場合、芸人やタレントがでてきて騒いでいるような番組(が好きな人も世の中にはいるのだろうけれど)は、チャンネルを変えることで対処できるからいいのだが、CMとなるとひとつひとつの時間も短いので、そのたびにチャンネルを変えてもいられない。いきおい、そのまま流しつづけてしまうことになる。たとえ不快に感じていたとしても、だ。

そうしたCMの存在意義は筆者にとっては無いに等しいのだが、だからといって「この私の小さな声」を世の中に届ける術はない。世の中には、こうした「小さな声」が多数うずまっているのではないか、などという気もするが、CMが楽しみという人がいないとは限らない。広告については代理店あたりがいろいろな指標を駆使して、その効果を謳っているのだろうけれど、しかし、それって本当に信用していいものなのだろうか。広告がなくなったら代理店は商売あがったりだろうから、決してネガティブな指標を出したりはしないだろう。

いや、存在意義という点でいえば、広告がもし仮に無くなったとしたら、放送局が存続するためのビジネスモデルがなければならない。それはNHKのような有料放送ということになるのだろうか。しかし、各局がいっせいに有料放送化したら、視聴者は局を選ぶようになるだろうし、そうなるとすべての民放局が選ばれることもないだろうから、視聴料の価格が上がり、ますます視聴者は離れてしまうかもしれない。そう考えると、たかが広告をなくすために高い金を払うということに賛同する視聴者の数は激減し、テレビ局のビジネスは成立しなくなるだろう。民放連のデータによると、地上波テレビ局の年間売り上げのうちスポットCMの収入だけでも、たとえばテレビ朝日の場合には74%だという。これをコンテンツの有料化によってカバーするというのはおそらく難しいことだろう。

広告神経症という病

そもそも広告というサービス業が成立しているということが、筆者には不思議に思えてならない。もう少し厳密にいえば、広告の「単価」というものが現在のようになっていることが不思議なのだ。

企業は広告をしなければ自社の製品やサービスの売り上げがなくなると思っているのだろうか、広告をすれば売り上げが増すと思っているのだろうか。どうも、広告をしておかないと売り上げが低迷してしまうという不安に駆られているだけなのではないかと思ってしまうのだ。広告代理店やテレビ局は、そうした企業の不安心理、これは広告神経症といってもいいと思うのだが、そこにつけこんで、金を吐き出させているのではないか…そんな風に見えて仕方がないのだ。しかも、広告代理店やテレビ局は、その制作や放送にかなりの金額を設定しているが、その金額は妥当なものなのだろうか。広告効果については、いろいろな理屈があるのだが、それによって広告の単価が妥当だと言い切れるものだろうか。

広告が安価なものなら、筆者もこんなに頭にくるわけではない。頭にきているのは、結局、それらの費用が巡り巡って商品やサービスに上乗せされ、消費者が負担していることについてなのだ。要するに、消費者はなにがしかの金額を負担させられたうえ、見たくもない広告を見せられている…。見たいものに金をはらうのは理解できるし納得できる。しかし、うるさい、わずらわしい、関係ない、というような広告に結局のところ金を払っているという、ごく基本的な構図への理解がなぜ浸透していないのだろうか。

まあ、おそらくこの現状は変わらないだろう。民放の受信の有料化というシステムが実現するまでは…。もちろん、現在でも、ネットベースではサブスクによる放送があるから、それがニュースやドキュメンタリーなどにまで発展することになれば、不可能なことではないだろう。ただ、ニュースやドキュメンタリーにおいては取材力がものをいう。この点が二次取材をベースにしたYouTubeの疑似報道コンテンツとは異なる点だ。もちろんマスメディアにおいても、BBCや週刊文春あたりが火をつけないと報道が始まらないという悪癖はあるにせよ、ともかく新しい形でのテレビ放送の在り方が問われているはずだと思っている。