学生経験向上のための授業時間の改善

今回は、大学生の学生経験のひとつである、講義の実施法に関する時間的側面に焦点を当てたい。講義が始まってから学生がどのくらいの時間まで集中して話を聞いていられるのか、がひとつの課題である。

  • 黒須教授
  • 2024年4月5日

学生経験

学生経験(SX: Student eXperience)は、ユーザ経験(UX)のひとつである。UXとしてはSXの他にも患者経験(Patient eXperience)やドライバー経験(Driver eXperience)、歩行者経験(Pedestrian eXperience)、聴衆経験(Audience eXperience)、家事経験(Homework eXperience)など、製品やサービスのユーザが分類されるカテゴリーごとに異なる経験を考えることができ、それぞれに異なった側面での問題提起をすることができるだろう。

学生経験においては、たとえば大学生を例にとると、学部や学科などの制度的環境、講義や実習の実施法、キャンパスの地理的・物理的環境、友人やサークル、事務方との関係などの社会的関係など様々なものが考えられるが、今回は講義の実施法に関する時間的側面に焦点を当てたい。

時間的側面に関して考えると、人間の注意集中が時間とともに減衰していき、講義が始まってから学生がどのくらいの時間まで集中して話を聞いていられるのか、がひとつの課題ということになる。今回はこのことを取り上げたい。

この問題については、すでに2021/9/13に「精神作業と疲労や集中力」というタイトルで似たような内容を論じているので、読者はまずそちらを見ていただきたい。そこでは、インタビューユーザビリティテストなどの1セッションの時間は2時間が限度であるとしていることに話を方向付けていたが、今回の原稿ではそこに書かれていないような改善策の提言にウェイトを置いている。

しかし、それにしてもいろいろなソースを探してみても、メンタル作業における注意集中のスパンが時間とともにどのくらい低下していくのか、というデータが(今回も)見つからなかったのは残念なことである。一般的なサイトには注意集中は20分などと書かれていることもあるが、その科学的根拠が示されていない。どこか徹底して探せば出てくる可能性はあるが、さて、どうなっているものか。

大学における授業時間

これについては、前稿(2021/9/13)に書いているように、小学校では1コマが45分で休憩が5-10分という状態から、上級学校になると「段々大人になってゆくのだから我慢出来てあたりまえ」という固定観念が支配的なためか、中学校・高校では50分が一般的になっているらしい。大学になると、以前は90分で15回だったのが、最近は100分で14回に変更したところが多く、なかには東京大学のように105分のところもあるのだそうだ。

大人なら1時間半や2時間程度はじっとして話を聞いていられて当然のはずだ、という意識は社会に根付いてしまっているようで、講演会の時間なども90分の講演に30分程度の質疑応答が追加されていることが多い。

大学設置基準

さて、大学の授業時間がなぜ90分とか100分になってしまったかを辿ると、その大元は大学設置基準である。この第21条が単位に関するもので、そこには以下のように書かれている。なお、この基準は頻繁に改定されており、ここに引用したものは2023年10月1日に施行されたものである。

(単位)

第二十一条 各授業科目の単位数は、大学において定めるものとする。

2 前項の単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、第二十五条第一項に規定する授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、おおむね十五時間から四十五時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位として単位数を計算するものとする。ただし、芸術等の分野における個人指導による実技の授業については、大学が定める時間の授業をもつて一単位とすることができる。

3 前項の規定にかかわらず、卒業論文、卒業研究、卒業制作等の授業科目については、これらの学修の成果を評価して単位を授与することが適切と認められる場合には、これらに必要な学修等を考慮して、単位数を定めることができる。

大学設置基準

これを読むと分かるように、1単位の授業時間は45時間とされている。ちなみに援用されている第25条は、講義、演習、実験、実習、実技といった授業形態に関わる授業の方法を規定している。

さて、講義が45時間。これを元にして90分15回とか100分14回といった講義時間と回数が決められているのだ。しかし、それに対しては45時間が適当であるという科学的根拠ないし学術的根拠が全く示されていない点に注目すべきだろう。1単位とは、ひとまとまりの内容ということであり、そのひとまとまりは教科によってどのような情報密度で計算されたものかが分からない。科目によっては情報内容が少なくて、にもかかわらずトータルの1400分(または1350分)を満たさなければならないということで、必ずしも教える必要のない事柄を講義に突っ込んでしまう教師がいないとは限らないし、それではとても足りないということで速足に進んでしまう教師がでてくるかもしれない。このあたりの采配については、大学のカリキュラム編成の段階で、これこれの内容は重要なことが少ないだろうからほかの科目に引っ付けてしまおうとか、「なんとかのⅠ」「なんとかのⅡ」のように分割する場合もあるだろう。ただ、シラバスを構成するのは担当をまかされた教員であり、うすうすそうした事情を感じてはいても、基本、自分の考えた内容を入れ込んでしまっているのが現状である。できあがったシラバスは再度カリキュラム編成委員会でチェックされるが、学問の独立性の尊重という原理があるために、あまり細かい口出しをすることはなく、ほぼそのまま確定されてしまう。

また、15回90分にするか14回100分にするかは大学に任されているわけだが、それを30回45分にしようとか28回50分にしようということにはならない。こうした現状には人間工学的な知識が欠落しており、その配慮にも気がまわらない(というか、従来のやり方に革新的な変化をいれることへの躊躇いが大きいとは思うが)執行部と事務方が決めてしまうわけで、学生のSXなどはどこかに吹っ飛んでいる。

座学と実習

もちろん、気の利いた教師は、適宜実習を入れたりして学生の集中度を上げるように配慮してはいる。また、いわゆるワークショップであれば能動的な授業参加になるので、集中力の維持は座学だけの場合に比べて容易にはなるが、すべての教科がワークショップ形式に適しているというわけでもない。

座学と実習の違いは、心理面と身体面の両方にあるだろう。まず心理面では、座学は受動的な態度で耳から聞き、目から読み、時にそれをノートする、といった状態の連続である。ノートをとるときに若干の能動性が入るものの、基本はパッシブな態勢である。眠気がでてくるのも自然な流れといえる。それに対して実習では、自分の積極的参加が求められ、それに応じて頭を能動的に働かせる。身体面でいえば、座学は座りっぱなしであり血流が滞りがちになるが、実習は動き回るから新鮮な血液が脳にも送られる。しかし、教授内容の性質を考えると、すべての授業を実習型にするわけにもゆかない。

小さな反乱

そうした状況のなかで、筆者は非常勤先の大学で小さな反乱を試みている。そこの大学では100分授業なのだが、一介の教師が勝手に50分授業、10分休み、50分授業などとやると、ほかの授業に迷惑がかかってしまうから、大枠はいじれない。そこで、その制約のなかで、受動的な状況と能動的な状況を組み合わせることを考えた。

つまり、100分の授業時間のうち、最初の70分は座学での講義を行うが、つづく30分では、学生にレポートを教場で作成させる。学生は全員ノートパソコンをもってきているので、そこにレポートを入力することになる。レポートは、A4一枚程度の分量で、前半にその日の講義の内容を要約し、後半でその内容に関する学生個人の意見や疑問点を書かせるのである。レポート作成は能動的な活動になるので、眠気も飛び、頭も活性化する。また後半の意見や疑問点は、前半の要約をベースにして自分の見解をまとめることになるので、きわめて能動的な活動になる。

作成されたレポートをみると、前半で項目の箇条書きしか書けていなかった学生のレポートの後半は一様に質が低く、読んでいても面白みがない。反対に、前半でうまくまとめてある学生のレポートの後半には的確な指摘があったり、時に教員の見解に対する異論が書いてあったりしてなかなか興味深い。

講義を70分にするとはいっても時には80分くらいになってしまうこともあり、学生はレポート作成の残りを持ち帰ることになるが、それについての不満はでてきたことがない。

このやり方は、授業時間の使い方を改善しようとしたひとつの試みに過ぎないが、座学が中心になる講義型の授業においては、広く使われてもいいのではないかと考えている。