イノベーションや起業の帰結主義

営利中心主義もユーザ中心主義も、仮言命法でも定言命法でも表現は可能なように思われる。ただ、ユーザ中心主義を押す立場からすると、その気持ちとしては、義務論の立場をとり、定言命法で考えてゆくべきものだと言いたくなる。

  • 黒須教授
  • 2018年9月26日

今回は、営利中心主義ユーザ中心主義について、その倫理的根拠を探るような試みをしてみたい。

デザインを儲けだけにつなげないで

ビジネスをプロデュースする話、デザインでイノベーションを起こす話、がんばって起業してます的な話、ベンチャーやってるんですよ的な話、スタートアップ企業の話、ついでに、サービスデザインの話もマーケティングの話も、ずいぶんと聞かされていて、わかりました、わかりました、もう結構ですと言いたくなるほどだ。

もちろん産業界が活性化して、日本経済の水準が向上していくことは望ましいことだし、デザインがそれに貢献できるのは結構なことだとは思う。もちろん僕だって、お金を手にいれられることは、手に入れられないより遥かにいいことだと思っているし、やりたいことができることは、やりたくない仕事をやらされているよりもいいことだと思っている。

だが、なんか最近、デザインが金儲けの手段に使われる話、デザインのアプローチがビジネスにとか金儲けとかに直結した話が多すぎるような気がしてならない。もちろんデザインというマインドセットや活動の効果が素晴らしいものであることに異論はない。だけど、それだけでいいんですか、もっと他に考えるべきことはないんですか、さらに言うなら、お金が儲からなくても考えていくべきことはあるんじゃないんですか、と問い返したい気持ちなのだ。

たまたま僕に送られてくるメールにそうした内容が多いのかもしれないし、Facebookでもそうした書き込みが目につくだけなのかもしれない。振り返ってみると、UXが話題になり、UXデザインというキーワードが盛んに用いられるようになった頃から、どうも金儲けに関係する営利中心主義的な話が増えてきたような気がする。ともかく、ここでは、そうしたことについて考えてみたい。

帰結主義のひとつとしての営利活動

とたんに難しい言葉を出してしまおう。まず帰結主義(consequentialism)である。改めて知っておきたいという人はウィキペディアでも、ちょっと時間があるなら哲学事典などでも調べていただくのがいいだろう。せっかくの難しい言葉をめちゃくちゃ簡単に説明してしまうなら、「消費者の気に入るという帰結に至るなら売上が上がるだろうから、それで良い」というように、結果の如何でことの是非の判断をすることである。次に述べる功利主義も帰結主義のひとつである。

倫理学においては、カントに由来する義務論(deontology)とベンサムの功利主義(utilitarianism)に由来する帰結主義との対立の歴史がある。義務論というのはカントの唱えた倫理的論述のことなのだが、そこでは、ふたつの原理が対比されている。

義務論(定言命法)

カントの主張する義務論の立場は定言命法というもので、「とにかく、何が何でもそうすべきである」ということで、「とにかく人を殺してはいけない」とか「とにかく売上を大きくしなければならない」というように、理由の如何を問わずに人間の行動を律しようとする立場である。

帰結主義・功利主義(仮言命法)

これに対し、もうひとつは仮言命法というもので、さきの帰結主義も「正当防衛でなければ人を殺してはいけない」とか「結果がよいならば、それはよいことである」というように、ある目的なり条件が満たされるように行動することを要請する立場であり、定言命法的な義務論を主張するカントからは批判の対象となる。つまり、帰結主義は、結果が期待したとおりになる、という条件が満たされるならばそれを良しとする、という意味で、仮言命法のひとつといえる。

帰結主義のひとつである功利主義は、結果としてどのような効用が得られるかによって人間の行動や社会的制度の望ましさが決まる、と考えるわけで、(少なくとも現在は)より現実的であり、また世間に受け入れられやすい面をもっている。

どのようなスタンスでデザイン活動をするべきか

仮言命法的に考えるデザイン活動

現在の企業活動は、基本的に功利主義的な立場で行われており、したがって、なんらかの方針やコンセプトにもとづいてデザインしたものが、売上に貢献するならそれで良い、デザインが売上向上に寄与する部分が大であるなら、どんどんデザイン思考でも取り入れるべきだ、という考え方に通じる。つまり、最初のパラグラフに書いたデザインの今の状況は、営利という帰結に貢献するものとしてデザイン活動を捉え、そこに向けて更に前進しようとするものである。

ただ、営利中心主義的な立場は全体的なデザイン活動の一部でしかない。デザイン活動の他方の極にはユーザ中心主義があるが、それは現実的というよりは理念的で理想主義的な面をもっていて、営利中心主義と同じく功利主義的な立場ではあるものの、活動の効用をどのようにとらえるか、という点でそれとは異なった面がある。つまり、ユーザ中心主義では、効用を企業の売上ではなく、ユーザにとってのありがたさ、受容性に位置づけているわけである。ユーザにとってありがたく、受け入れやすいものづくりであれば、それはユーザにとっての効用があるといえる、と考えるわけである。

いいかえれば、同じ功利主義的立場でも、営利中心主義とユーザ中心主義との間には、企業にとっての効用を重視するか、ユーザにとっての効用を重視するか、という違いがある。帰結主義という概念を使っても、企業にとっての帰結を重視するか、ユーザにとっての帰結を重視するかという違いとして対比的に位置づけることができる。さらに、ともに仮言命法にしたがった活動である、といえる。

定言命法的に考えるデザイン活動

さて、それではカントの義務論、そして定言命法の観点からデザインを考えるとどうなるだろう。「何が何でも」という言い方はいささか危険な可能性を含んでしまうのだが、企業の立場からすれば「理由の如何をとわず、売上は増大させるべきである」となるだろうし、ユーザの立場からすれば「理由の如何をとわず、商品はユーザにとって受容可能(usabilityやusefulnessの上位概念としてのacceptabilityのこと)なものにすべきである」となるだろう。

ここで注意しなければならないのは、売上にも大小はあるし、受容性の程度(たとえばユーザの満足感を指標とする)にもレベルの違いがあるだろう。しかしカントの定言命法では、程度の違いは問題としない。あたかも神の託宣のように、それをそのまま受け入れるしかないのだ。

改めて重視すべきユーザ中心主義

結局、営利中心主義もユーザ中心主義も、仮言命法でも定言命法でも表現は可能なように思われるが、現実的なのは仮現命法であり、帰結主義であり、功利主義といえる。

ただ、ユーザ中心主義を押す立場からすると、その気持ちとしては、義務論の立場をとり、定言命法で考えてゆくべきものだと言いたくなる。ユーザにとっての受容性を大前提とし、製品やサービスは「とにもかくにも」ユーザにとって受容可能なものでなければならない、ということだ。

ただし、現実的な諸条件、たとえばユーザは生産手段や技術や資金をもっていないという点を考慮した場合には、ユーザの立場においては受容性という相対的な効用の増加に期待するしか他に手がない、というあたりに落ち着くように思われる。その結果、ユーザ中心主義者であっても「UCDやHCDを適用すればユーザの受容性が高くなり、売上にも貢献しますよ」、という営利中心主義とユーザ中心主義を折衷したような仮言命法を使わざるを得なくなった。そして、これがUCDやHCD推進のための売り言葉として使われてきた。純粋なユーザ中心主義とはいえないが、まあいたし方なかったということだ。

なんとか、そうした折衷的な仮言命法から脱したい、定言命法で進めてゆきたい、という思いはあったが、その言い方では、売上を重視する経営サイドは、売上への効果を確認したいから満足しないだろう。

そこで冒頭の話に関連していえば、現在、売上という効用を振りかざした営利中心主義にデザインは深く関与してしまっているが、少なくとも、もうひとつのデザインのアプローチ、つまりユーザ中心主義を改めて重視すべきではないのか、折衷的な帰結主義でも致し方ないから、ということになる。