ノーマンの夢
すごく興奮する夢を見ていた。目が覚めて、HCDのことを考えた。HCDが満足できるUXの実現を目指すものなら、個々のHCD活動は具体的な問題解決でも、もっと汎用的な問題解決のようなものが必要ではないかと思える。
謎かけの夢
夢を見ていた。すごく興奮する夢だった。場所は昔勤めていた日立製作所の中央研究所。そこに若い僕がいた。いや年恰好は若いけれど、昔のままの自分ではない。あの時、上長に期待されたことを実現できなかった僕が、リベンジのためにあらためて自分をタイムスリップさせたような状況だった。
その時の部長は、僕に明確な指示を与えなかった。それは実際の過去の状況と同じだ。僕は自分の仕事を明確にしたかった。そしていろいろな建屋に散在する知り合いの間を走り回っていた。自分の所属部署はあった。しかし、そこは何もミッションのない部署だった。いやミッションを創り出すことがミッションだった。同僚たちは、皆、それぞれのミッションを持っていた。そしてそれに専心していた。それがある意味で羨ましかった。でも彼らは僕にその仕事をやらせてくれなかった。僕にはもっと一般的で抽象的で汎用の問題に取り組むように求めていた。上長たちもそうだったし、彼ら同僚たちも同じだった。どうせ数学なんか碌にできやしない僕に、どうせ工学的な知識なんか碌すっぽ持っていない僕に、彼らの替わりができる訳もなかった。上長たちも同僚たちもそれが分かっていたらしい。だからなのか、あまりに近づこうとすると突っぱねられた。
ところで、所内には美味しいコーヒーがなかった。各ユニットの部屋で自分たちで淹れるコーヒーはまずかった。しかし、所内には小さな東屋があって、そこに旨いコーヒーを淹れる店があった。いや、実際にはそんなものはなかったのだが、そのことを知っていると思われる何人かの所員は、短い列を作って、コーヒーのできるのを待っていた。自分の番が来て、コーヒーをカップに入れてもらうと、また僕は走り出した。そして自然言語処理をやっている同僚の所へ、次に画像認識をやっている同僚の所へと、建屋のなかを移動した。
僕の研究成果を発表する日が近づいていたのだ。でも僕の研究って何だ。個別の具体的テーマをあてがわれず、もっと一般的なことを考えろと言われていた僕は、とても往生した。いや、これは実際にそうだった。夢のなかだけの話ではなかった。はやく具体的な問題に取り組みたかった。しかし、そう考える姿勢そのものに問題があったのだ。その点まではいちおう理解できたし、同僚たちも同情的にやさしさをもって僕を突っぱねていたのだ。僕には期待感の重圧がまとわりついていた。
そんな状況のなか、MYCINの話が伝わってきた。夢のなかの時代状況はその頃でありながら、現在でもあった。そうなんだ、MYCINのように目標を限定すれば解を見つけることができる。しかし限定的でなく、もっと汎用のそれってどういうものなんだ。どういうことをすればその答えになるんだろう。SimonとNewellのGPS (General Problem Solver)というキーワードが思いおこされた。しかしGPSでさえ、問題を定式化しなければ解には到達できなかった。その定式化の部分を超えることが求められていたといってもいい。いや、夢だから、そんな簡単に云えてしまうけど、実際はないものねだりに近い話だった。上長たちも、そのことは分かっていながら敢えて僕にそうした問題を投げかけていたのだった。ある時は机の下に隠れて、またある時は何気なく散歩するフリをしながら、僕は同僚たちの部屋を訪れ、考えあぐねていた。
そんな夢だった。ちょっと疲れて目が覚めた。目が覚めてから、これは一つの啓示なのではないかと思った。そして瞬間的にHCDのことを考えた。
問題を具体化するアプローチの是非
HCDは焦点を明確にし、問題点を具体化することを求める。ユーザビリティを阻害している要因を明確にし、より高いレベルのUXを実現しようとする。そのためには問題点の特定が必要となる。そしてユーザ調査が行われる。それはちょうど、印刷された文字の認識を行うとか、顔認証や指紋認証を行うとか、特定の話題領域における自然言語での対話を行うといった個別アプローチのアナロジーとして、会計処理の流れを効率化するとか、動画像通信におけるユーザの不満足感の解消を目指すとか、会議における議事進行の有効で効率的なあり方を求めるといった問題を考えることにつながっている。いや、もっともっと卑近な問題でいい。卑近であればあるほど具体性があり、解のイメージに近づくことができる。いわば、理想的なGPSではなく、個別の問題に対応したSPS (Specific Problem Solver)を求めようというあり方である。
アクセシビリティのアプローチは一般的なHCDよりも具体的である。問題まずありき、である。もちろん問題を解決するのは重要なことだし効果的でもあるだろう。その一般的な目標を描くとすればMaceの提唱したユニバーサルデザインの七つの原則になるのだろう、か。いや。現実にはユニバーサルデザイン領域での活動が、結局のところ個別の障害への対応になっているのは、それで良かったのだろうか。そうした対応を一つずつ積み重ねることによって理想状態に漸近的に赴くという取り組み方が最善のものなのだろうか。
ここでAmazonの取り組みが頭に浮かぶ。Amazonが成長した理由はその利便性にあるし、その利便性の基本は中間マージンを排除してそれを自社の利益とするという、産地直送と同様の原理によっている。ユーザからすれば、製品ジャンルによって個別のECサイトを訪れるという手間が省ける。Amazonの優れた点は、個別のECサイトが行っている中間マージンの削除という個別的SPSのアプローチを多様な製品ジャンルに一般化し、ありうべき汎用のGPSとしてのアプローチを実践したところにあった、といえるのではないだろうか。
それを考えれば、個別問題に埋没しがちなHCDのアプローチにも反省すべき点があるのではないかと思われた。いやMaceのような原則を提示するだけなら、ある意味、誰にでもできる。じゃあ、どういうアプローチが求められているというのか。原則論だけでは単なる無いものねだりになってしまうのではないのか。提唱者のNormanが描いていたユーザビリティ以上の何かとしてのUX、という目標も単なる無いものねだりだったのだろうか。しかし、見方を変えると、Normanが目指していたのはSPS的にユーザビリティ以外の目標への拡大を図ることではなく、彼自身、うまく言語化できてはいなかったが、もっとGPS的なものではなかったのではないだろうか。
結局は心理学なのか
HCDが満足できるUXの実現を目指すもの、であるなら、個々のHCD活動はSPSであっても、何かもっとGPS的なものが必要なのではないか、と思える。その形は、「何々をすること」ではなく、「人間をかくかくしかじかの状態にすること」という、もっとユーザの心の状態を表現したものになるのではないか。いや、ここに書いているのは、あくまでも夢の物語である。そして、その続きである。だから朝の四時半に床から起きて、こうして原稿を書いているのだ。
しかし、「人間をかくかくしかじかの状態にすること」と自分の目標を設定するなら、それは心のことわりに関わる話になってくるように思う。いやいや、心の理といっても、「ユーザビリティの実現には認知心理学を学びましょう」的な話ではない。これこれの心理学的事実や法則にもとづいて、このようにデザインしましょうという話ではない。もっと、そう、たとえばポジティブ心理学の取り組みに近いような話になる筈だと考えている。ただし、それは人間関係に関してのことではなく、人工物との関わりにおけるポジティブ心理学であろう。ある意味では、ユーザが自分の心のあり方と対峙して、その自分と人工物の関係性をどのように受容するか、という話になるような気もする。そしてデザイナーがその関係性をどのように受け止めるか、という話でもあるのだろう。
そこで重要になるキーワードは、満足感だろうか、受容性だろうか、快適性だろうか、あるいはフローなのだろうか。いずれにせよ、ポストHCDの核は、そうした心のあり方に深く関係しているように思う。ただ、それはユーザの心のあり方を考えること、つまりユーザのあるべき心理状態を目指すというだけではない。あくまでも目標とする心理状態を足掛かりにして、ユーザが利用する人工物のあり方をどのようにデザインするか、という考え方になるはずである。
唐突だが、この話はここまでである。一時間半をかけてこの原稿を書いてきて、すっかり目が覚めてしまった。だから続きはまた追い寝でもして考えることにしよう。