人間中心設計という言葉の是非

人間中心設計における人間という概念は、十分に吟味されて選ばれたものとはいえなかった。人間中心設計というとなにやら崇高な響きがあるように聞こえてしまうが、本当に考えるべき側面はユーザとしての人間についてなのだ。

人間中心設計の考え方

人間中心設計という考え方がISO規格として最初に出現したのは1999年に標準化されたISO 13407においてである。それ以前にも人間中心という考え方がなかった訳ではないが、それを設計、つまりものづくりと結びつけて規格化したのはISO 13407の成果だといっていいだろう。

当時まで、世間には技術中心主義が跋扈していた。19世紀以来、いや、それ以前から技術は新しいもの、便利なものを人々に提供してきたため、技術を高めれば人々にとって望ましいものができる、という信念ないし信仰のようなものができあがってしまっていた。

しかし、その結果として、それを使う人間に対する配慮が欠け、使いにくく分かりにくいものが当然のような顔をしてまかり通る状況が生まれた。

そうした技術中心主義の成果に翳りが見えるようになった20世紀の末期、あらたな市場開拓を模索する人々と、従来の技術成果の非人間性に不満を抱く人々の前に、人間中心設計の考え方が登場した。これはギリギリ適切なタイミングであったといえる。

ともかく、人間中心設計というキーワードは、技術中心主義を適用した技術中心設計に対比するような意味合いで、新たなキーワードがもたらす効果に期待感を抱いていた関係者の間に徐々に浸透することになった。

人間という概念

しかし、人間中心設計における人間という概念は、十分に吟味されて選ばれたものとはいえなかった。この点が今回の記事の焦点である。

そもそも人間というのは何のことだろう。こんな問いを抱きながら人間中心設計という言葉を使っている人は少ないと思う。たとえばデザイン思考という日本語のバズワードが二つの名詞をつなげたものであり、その修飾関係が明らかでなく、デザインと思考の間にどのような関係性が意味されているのかを考える人がとても少ないように、バズワードは意味を深く考えずに使われることが多いからだ。デザイン思考については、それがdesign thoughtではなく、design thinkingであるということが訳語には明示されておらず、これは最初に訳した人の責任だと思うのだが、そんなことを気にせずに使う人が多いから困ったことになっている。いや、それで困ったと思っている人が少ないことこそが困ったことである。

それはそれとして、ほとんど同じ意味合いで使われていながら、最近はあまり使われなくなっているユーザ中心設計という表現を考えて見よう。ここでいうユーザは「人工物の利用主体としての人間」という意味になり、実に明確に定義されうる。ユーザという表現を拡張するなら、動物を含めることも可能である。犬小屋や猫タワーの使い勝手も含まれるわけだ。反対に、歩きながらボケーと夢想にふけっている時のように人工物の利用場面を離れた場合には、人間はユーザではなくただの人となる。ユーザ中心設計では、ユーザを中心に据えるということになるから、利用における使いやすさや分かりやすさを重視しよう、ということが言いたいのだと分かる。だからユーザ中心設計という概念は、人間中心設計と同じ意味合いであるとは言いながら、実はその明確さにおいては段違いなのである。

さて、人間中心設計の人間である。人間とは何を指すのか。ヒトのDNAを持っている生物のことだろうか。その場合、人間を中心に据えるというのはどういうことなのだろう。そもそも人間が中心なのだから、動物や他の自然界のことよりも人間が大事だということなのだろうか。しかし、それでは人間中心主義(anthropocentricism)になってしまう。それでいいのだろうか。つまり人間中心設計という表現には、ただ単にヒトのDNAを持っているかいないかで判別するような単純な見方になる危険性が含まれているのだ。

現在の世界は人間が支配している、と思われている。たとえば人間以外の動物に対しては、それを殺傷しても動物愛護法によってしか罰せられないが、人間を殺傷すると刑法によって罰せられ、時には死刑と判定され殺されてしまうこともある。かなりの落差である。反対に、ヒトのDNAを持っていれば、それはどのようなケースにおいても十分に尊重されねばならないのか、という問題もある。きわどいところでは、人工呼吸器をつけられた患者や死刑囚の問題がある。後見人がついている人々の問題もある。どうもヒトのDNAを持っている人々を中心にして設計を行うというニュアンスで捉えてしまうと、人間中心設計という概念はおかしなものになってしまう。

ではここでいう人間とは何なのか。国民ではないし市民というのも人民というのも外れている。それは政治の文脈における人間である。それらは人間という概念の部分的な一側面にすぎない。それでは消費者ならいいだろうか。確かにユーザは経済活動のなかに置かれているけれど、経済活動に接するのは購入の時点を頂点とするものだ。人間中心設計で本来問題にしなければならなかったのは、購入する時点ではなかった筈だ。だから消費者中心設計というのもはずれている。しかも、知人や家族からもらう場合もある。その知人や家族は消費者ではあっただろうが、彼らにとって問題なのは値段と、それから送る相手が喜ぶかどうかであり、それは設計の中心目的ではない。

そのほかにも人類とかホモサピエンスなどというものがある。しかし、これでは正にヒトDNAの保有者ということになってしまい、生物学的、遺伝学的な観点になってしまう。さらに、人並みの生活といった言い方の「人」の場合には、世の中の平均的なプロフィルをもった人間ということになる。その他、まだ色々あるだろう。

いいかえると、人間という言葉には、国民、市民、人民、消費者、人類、ホモサピエンス、その他のさまざまな意味合いが込められうるが、それは、「人間」がそれだけ多義的で曖昧な言葉だ、ということでもある。人間中心設計というとなにやら崇高な響きがあるように聞こえてしまうが、本当に考えるべき側面はユーザとしての人間についてなのだ。

これから

結論は明確である。もう今後は、人間中心設計という言葉を廃棄しようではないか。そしてユーザ中心設計という言葉に置き換えるのだ。それで何か不都合がおこるだろうか? ともかく、やたら考えもせずに「人間、人間」というgenericな言葉を口にしないようにすべきだ、ということである。

公開:2017年9月12日
著者:黒須教授

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