ユーザビリティやUXのデザイン関連の学会発表はなぜ少ないのか

今回は、ユーザビリティやUXに関係する学会などの大会運営や論文誌編集に携わる人たちの悩みの一つである、デザイン分野からの学会発表が少ないことの原因と、可能と考えられる対策について考えてみたい。

学会関係者の悩み

ユーザビリティUXに関係する組織としてはヒューマンインタフェース学会日本人間工学会、そして学会ではないが人間中心設計推進機構(HCD-Net)などがあるが、その大会運営や論文誌編集の仕事に携わっている人たちの悩みの一つは、ユーザビリティやUXの分野の研究発表、特にデザインに関する発表が少ないことだ。大会発表が少ないということは、当然、論文の発表も少ないことになる。学会を活性化するためには、どうしてもこの分野からの発表を増やしたいところだろうし、そういう学会関係者の気持ちもわからないではない。

ただ、領域固有の事情も考えてみる必要がある。ユーザビリティやUXという領域は基本的には新規技術の開発を行う領域ではなく、新規な製品やサービスを開発する現場的な実践領域である。だから研究発表や研究報告という枠組みは、これらの領域にはあまり適切とはいえない。もちろん新たなデータ分析法や評価法の発表も可能ではあるが、それほど数多いものではないだろう。

では、新規な製品やサービスに関する実践報告なら可能なのかというと、新たな製品コンセプトやサービスコンセプトが誇らしげに発表されるだけでは、企業的には価値のあるものであっても、新製品発表会と変わりが無くなり、聴衆の興味を削ぐだろう。また、ユーザビリティ評価やUX評価に関する内容を紹介するということになると、やり方によっては社内の恥をさらすことになるからと及び腰になってしまう可能性がある。

しかし、苦労も失敗も含めた試行錯誤のプロセスを実践報告として発表することになれば、そこから教訓を読み取ることもできるし、聴衆の自らの業務に対するモチベーションを高めることができるだろう。要は、その発表の仕方、原稿の書き方に関係しているのだ。

今回は、特にデザイン分野からの学会発表が少ない原因と、可能と考えられる対策について考えてみたい。

デザイン関係の発表が少ないわけ – 1. 価値観

しばしば言われることかもしれないが、デザインの領域では作って見せ、市場に出してこそ価値があるのであり、その内容や結果を学会で発表して学会における評価を獲得したところで意味がないという話がある。技術領域との価値観の相違というところだろう。いいかえれば、市場的価値が高く、売り上げが大きくなければ、仮に学会で良い評価を得たとしてもあまり意味がない、という考え方である。要するに評価軸が、学会的評価ではなく市場的評価になっているのだ。

ただ、新しいコンセプトを生み出した経緯や努力は、そこからくみ取るべきものは多く、後進のデザイナーにとって参考になることが多いだろう。たとえばWindows用に河野栄一氏が設計したメイリオ(Meiryo)というフォントの誕生秘話や、スケジュール管理と経路検索を連動させるRODEMというサービスの開発経緯の話などがそうした実践報告の例といえる。河野氏の活動の実践報告などは、フォントデザインの専門家でもない筆者にも興味深いものだし、その努力には敬意を払いたくなる。こうした話は、そんなにゴロゴロと転がっているものではないかもしれないが、デザイン活動やその所産の価値をじっくり振り返ってみれば、どこかにそうした光る部分があるだろうし、また、そうした部分を文章として外化することで、その価値を自分たちでも再認識することができるのではないだろうか。

デザイン活動を、やってお終い、後は売れることを祈るだけ、という感じで投げ出してしまうのは如何にも惜しい気がする。やはり関連する情報の再構成を行い、それを文章化することに挑戦すべきではないか。それによって、デザインを次の時代に技術移転することもできるようになるだろう。言い換えると、デザイン関連の発表が少ないのは、価値観の違いによるというよりは習慣の違いというように受け取れるのだ。

なお、こうした話をしてもらうためには、現在の学会の10-15分という発表時間は短すぎる。工学的な技術発表であればそれで仕方ないかもしれないが、デザインについては、せめて30分、できれば60分くらいを割りあてて、じっくりと話をしてもらうことが必要だろう。

デザイン関係の発表が少ないわけ – 2. 文章作成技能

河野氏のメイリオ秘話やRODEMの開発の苦労話が読み応えあるものになっているのは、その記事を書いた@ITの西村賢氏やHCD-Netの羽山祥樹氏という人たちの情報構造化の技術と作文技術の水準とも関係していることはもちろんである。つまり、実践報告を学会に発表するにしても、トピックスの構造化とその文章化の技術が関係してくるのだ。いいかえれば、デザイナーとして有能であっても、こうした構造構成力や文章表現力がないと、実践報告はだらだらとしたものになって聴衆の注意を削ぐものになってしまうだろう。

頭のなかにモヤモヤとしている事柄を文章という線形の表現メディアに変換するには、それなりの知的能力が必要なことはたしかだ。先に書いたような情報の構造化や文章化の技術というものがそれである。では、そうした能力は、デザイナーには備わっていないのだろうか。

デザイン関係の発表が少ないわけ – 3. デザイナーの知的能力

よく感性と知性という対比的な言い方が使われるし、右脳型とか左脳型と言われることもある。こうした言葉遣いのなかには暗黙裏に感性vs知性、右脳型vs左脳型という対極的な構造化が行われているように思う。つまり、感性的人間は知性でなく感性が強く、知性型人間は感性でなく知性が強い、ということだ。でも、果たしてそうなのだろうか。

試しに図1のようなものを考えてみよう。縦軸に知性の軸があり、上が知性が高い場合、下が低い場合を、また横軸に感性の軸があり、右が感性が高い場合、左が低い場合を表している。こうすることによって①から④までの四つの象限にどれだけの場合があるだろうかを考えてみるのだ。仮に②と④にだけ人々が分類され、①と③にはほとんど分類されることが無かったとしたら、感性と知性には負の相関がある、つまり感性が高い場合には知性は低く、知性が高い場合には感性は低いということになる。しかし①から④までの四つの象限に適当に人々がばらつくのであれば、感性と知性の間の相関は低い、つまり両者はほぼ独立だということになる。こうした概念間の独立性チェックを試みることは頭の整理になるだろう。

図1 感性と知性の概念独立性チェック

そして、知性と感性の場合、これはデータがあるわけではないので相関係数がいくつになるかを言うことはできないが、すべての象限に人々は分布しているのではないかと僕は予想する。データが取れれば文句ないが、この際、データを取っていなくても、感性も鋭いし知性も高いといえば、ああ○○さんがそうだなあとか、感性も鈍いし知性も低いというと、言っちゃわるいけど××さんなんかそういえるなあ、という具合に事例を思い浮かべるだけでもいいだろう。もしそういうパターンになるとすると、テレビやネットでよく言われるように感性vs知性と対比するのは適切では無い、ということになる。

さて、データも取らずにいささか乱暴ではあったが、仮に感性と知性との相関は低く、両者が独立だと考えられるとしよう。その場合でもデザイナーは④に、エンジニアは②に位置づけられてしまうといえるだろうか。いや、そういうことはないと思う。

作文に関する学習経験の必要性

ただ、ひとつ言えることは、感性についても知性についても、それに磨きをかけるためには経験や学習が必要だ、ということだ。もし、感性に秀でた人たちに文章力の低い人たちが多いという事実があるとしたら、それは単に練習をする機会がなかったとか、適切な学習の場が与えられなかった、ということではないだろうか。現在、京都女子大におられる山岡俊樹氏は、以前、「人体のイラストが描けなくて…」という筆者のつぶやきに「二週間くらい練習すれば描けるようになりますよ」と言われた。ただ、モチベーションが持たずに挫折してしまったが、デザイナーの場合にはこうした形で練習を重ね描画スキルを獲得してきているのだろう。同じ事は文章についても言えるはずで、ただその練習をしてこなかっただけだと言えると思う。

その傾向は実は工学系でも同様で、工学系においては学会発表や論文執筆は必須であるが、大学に入った頃の学生の作文能力はきわめて低い。それが教員の指導や練習の積み重ねで、大学院に入る頃にはなんとかそれらしい文章を書くことが出来るようになるのだ。残念なことに現在のデザイン教育の場では、作文指導は行われていないし、それをできる教員もちゃんと配備されていない。要するに教育現場の問題なんじゃないか、だからデザイナーとなっても、彼らの多くは文章作成を苦手とするままなのだ…と筆者は考える。

学習の機会はやって来るものではない、自分で引っ張り込むものだ。書くことによる表現がデザイナーにとって楽しいものになるなら、彼らは自然と文章作成をするようになるだろう。そして、学会で、自分の実践経験を発表するようにもなるだろう。これが筆者の希望的予測である。ただ、彼らが実践の現場で、文章作成の練習を積み上げる機会があるのか、それを時間の無駄と見なさないようなマネジメントが行われているのか、となるといささか心許ない。デザイナー達は、自分の考えやコンセプトを短い言葉で表現することは多い。その際、その内容を吟味するだけでなく、表現についても添削をするようにしたら、また、その考えやコンセプトを話し言葉だけでなく書き言葉で表現するようにしたら、状況は変化してくるのではないかと考える。…もちろん添削する能力を持った人がいることが前提にはなる。

ついでに言い添えれば、デザイナー達の好きなポストイットは駄目である。あれはイメージの断片を言語化するもので、文章としての構造を作らず、文章としての表現能力を涵養しない。以前、あるデザイナーの書いた原稿が、ポストイットに書かれているような断片的な文の羅列になっていて、あろうことか各文が中点に続けて書かれていたことがあり、驚いた経験がある。ちゃんとした文章を書く練習を重ねること、そして質の高い添削指導が行われること。デザイナーが学会でユーザビリティやUXについて議論できるようになるためには、ここがポイントだろう。

公開: 2019年3月14日
著者: 黒須教授