社会的インタフェースとしてのネット情報環境の平準化

最近、多くの人たちが、没個性的で類型化された発想や思考になってきたように感じ、世界における思考の平準化を助長しているように思える。また、頻繁なネットの利用によって自分で考える習慣が廃れてきたようにも思う。それでは、情報の海で安直な手段に頼ってしまうことになるのではないかと危惧している。

我々の周囲にある情報環境の平準化

最近感じるのだが、世の中の動きが、どの方向に向かうにしても極端に振れることが少なくなり、多くの人たちがどちらかというと没個性的で類型化された発想や思考法を取るようになってきたように感じる。

もちろん、たとえばブレインストーミングセッションなどの場では、今でもユニークな発想が重視されてはいるのだが、個性が強く独自の意見を持っている、いわゆるアクの強い人は、そもそもそうした集団的な場面を嫌い、そうした場にはあまり参加していないように思う。そうした人たちは、集団浅慮を避けようとしているのかもしれない。つまり、熟議を通して最善の策を考えるのとは反対に、多くの人たちが良くいえば民主的な形で、悪く言えば没個性的な形で結論に至ろうとするために、結果的に議論を突き詰めようとしていない場の雰囲気を、彼らは嫌っているからなのかもしれない。

その点で、第二次世界大戦が終了した頃の世界は今とは反対で、混乱のなかで数多くの極端がでてきていて、社会全体が試行錯誤をしていたように思う。ただしそうした動きは、いつまでも世の中を混乱に陥れ続けるものではなかった。次第に社会は安定の方向を目指して動いてきた。滅び廃れるものがある一方で、成功を収め、その後の社会を牽引する力を持つものもでてきた。

そうした経緯を考えると、混乱期の後の経済成長が、安定志向を産み、極端を廃した中道、つまり平均的な方向を歩むことを側面支援してきたともいえる。特に近年はネットの普及がそうした傾向を、社会生活にもたらしたし、それだけでなく研究者の世界にも浸透してきているような気がしてならない。

社会生活における思考の平準化は、たとえばFacebookへの書き込みなどを見ていると強く感じさせられる。誰もが美しいと感じそうな風景写真をアップしたり、ここの定食は美味しかったとかと写真をアップしたりするのはその一例だ。もう少し言えば、人道主義的な方向性の書き込みにはワッと「いいね」が付く。どうも思考や倫理観が単純化され、共感を得ることが目的になっしまっているのではないだろうか。つまり、他人から賞賛を受け「いいね」が付くことが、社会的な承認を得ることであり、そうでないと孤独に陥ってしまう可能性があると思っているのかもしれない。

テキストによる書き込みでも、公園に行ったら花が咲いていたとか、赤ん坊が立てるようになったとか、いま空港に着いていますとか、どうでもいいような、そして誰もが「よくないね」とは思わないようなニュートラルな発言が多く、個性のある書き込みをする人はとても少なくなっている。

さらに、そうした、どうでもいいような書き込みに「いいね」をつける人たちの心理が僕にはよくわからない。100件以上の「いいね」が付いていても、格別いい話とも思えないことがしばしばある。単純に「読みましたよ」というマーキングの意味かもしれないが、「いいね」を付けておかないと、付ける側の心理として、他の人に遅れをとってしまったり、またそこから隔絶されてしまうことへの心配なのかもしれない。

日本人は集合的な性質を持っているといわれるが、この「いいね(like)」付けの傾向は必ずしも日本人のFacebookへの書き込みにおいてだけ見られるものではない。それから考えると、この「いいね」現象は、現在の世界における思考の平準化、そして集合的思考の傾向を強く助長しているように思える。

このあたり、ポピュリズムや反知性主義の世界的浸透といった面から更に論じたいテーマなのだが、そうするといささかこのコラムの趣旨からずれてくるので、この辺までにしておく。ただ、そうした社会的動向とインターネットという社会的メディアのインタフェース特性とが関連しているだろう、という点については、また改めて書くことにしたい。

インターネットの普及と情報環境に潜む危険性

まずインターネットの利用技術の進歩を考えてみたい。情報検索は、ネットの普及によって飛躍的な進歩を遂げたし、サイトから検索できる情報群は、豊富な事柄についての理解を容易にした。しかし、人々のインターネット行動は、かなり検索エンジンに依存したものになっていると思う。これはGoogleやYahoo!などのエンジンだけでなく、Google Scholarやその他の検索場面についてもいえることだ。

その結果、人々の情報生活は、たいていは検索結果の最初のページしか見ないという行動傾向によって、多くの人々の間で共通化してきているのではないだろうか。要するに、皆さん、同じような情報源から情報を得ているのではないか、ということである。もちろん複数のキーワードの入れ方によって、表示される検索結果は異なってくるが、単一のキーワードを入れた場合には、ほとんど同じ結果が表示される。

インターネットが頻繁に利用されるようになった反面、辞書や事典を含めた書籍が、あまり読まれなくなったようにも思う。手軽に回答を得られるメディアとしてのインターネットは、その利便性において書籍を凌駕していることはたしかだ。しかし、検索して、何かが見つかって、あ、これで解決した、と思うような短絡的な反応が多くなっているのではないかと危惧している。

いいかえれば、自分で考える習慣が廃れてきたようにも思う。たとえば、二つ以上の辞書や事典を見て、同じ言葉や概念に異なる説明があるのを見つけたとすると、通常は、まずそこで考えねばならない。どれを取るかという簡単な判断もありうるが、これらをどうまとめたらいいのかとちょっと深く思考することもありうる。こうした思考プロセスは、たしかにメンタルリソースを消費する。平たくいえば、疲れるし面倒だし時間もかかる。

だが、こうした思考習慣を身につけておかないと、あふれるような情報の海で溺れるものが藁をもつかむように、安直な手段に頼ってしまう傾向が生まれるのではないか。たとえばウィキペディアは便利なツールだが、こうした傾向に拍車をかけているようだ。

そうした習慣をしている人たちが何人か集まって、実は同じ情報源から知った知識がベースになっているのにそれに考え至らずに、そうだ、そうだよね、と相互の情報を確認しあって世間の常識というものができあがっていくとしたら、これは恐ろしいことでもある。もともと常識というものは、多くの人々の間での相互確認がベースになっているとはいえ、ちょっと昔までは、典拠も違い、師も異なり、経験も異なるような人たちが集まって相互確認をしていくことで形成されるのが普通だったのではないだろうか。

以前、書いたような気もするが、こうした状況に対して検索エンジンが持っている力は強大だし、その責任も大きい。ウィキペディアのような巨大な知識の集積場所も、あるいは反対に何とかの知恵袋のような安直な知識提供サイトも、同様に大きな責任を持っている。

こうした状況において、いかに検索エンジンをつかいこなすか、また書籍を併用することが重要かを説くことが、インターネットリテラシー構築の為に必要であり、是非とも小学生くらいの段階からそうしたツールの使い方と物事の考え方を教えられるべきではないかと思う。顔つきこそ異なっているが、頭の中身は同じような人類になってしまわないために。

公開: 2017年7月25日
著者: 黒須教授

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