ようやくJIS Z 8530が刊行

ISO 9241-210の成立から9年後の2019年、その翻訳版であるJIS Z 8530がようやく成立した。ISO規格を翻訳してJIS規格とする場合には、その関係者たちは、日頃からISO側の活動をウォッチしておき、周囲の関連規格の状況や過去から将来に至る議論の流れを把握しておく必要があるだろう。

ISO規格成立から9年後にJIS規格が成立

人間中心設計に関するISO 13407:1999の後継版であるISO 9241-210ISO規格として成立したのは2010年。その翻訳JIS版であるJIS Z 8530:2019が2019年1月12日にようやく成立した。いいかえれば、ISO規格は改定されているのに、JIS規格としてはISO 13407を翻訳した旧版がそのまま公開されていたわけである。ISO規格が成立してから実に9年の歳月がたっているのだが、それには当初、経産省の方針によってあまりJIS規格を作らないようにするという考え方があったことが関係していると聞く。

その方針に対してJIS関係者の一部からやはりJIS版を刊行すべきではないかという意見が出され、それに対して、いまさら出すことに意味があるのかという反対意見もあったのだが、ともかく翻訳をすることになったのが、僕の記録では2017年ころだったようだ。しかし翻訳版が一応完成してから、何かいろいろと課題があったらしく、それから2年たってようやく我々の手の届くところに新しい規格がやってきた。

もっともISO 9241-210:2010の内容は、すでに色々なところで紹介されてきているので、実質的にはJISという規格がその実態にようやく追い付いた、ということになる。僕は、JIS Z 8530原案作成委員会の委員としてその翻訳に関与してきたが、5回ひらかれた委員会は、実質的な訳文を作成するWG(と記憶している)に作業を移管する形で終了し、その後、そのWGがどのように動いたのかについては委員会メンバーは全く知らされずにきた。そして、出る出るという噂ばかりが聞こえてきていたが、2018年には訳文についての問題があったらしいことを小耳にはさんだ。要するに、結構難産だったというわけだ。

まあ、ともかく出版されて良かったとは思うし、関係者の皆さんのご尽力をたたえたいとも思うのだが、ISO 9241-210の内容については既に色々と紹介もされ批判もされていると思うので、本稿では訳文についてちょっと言及しておくことにする。

図
JIS Z 8530:2019 人間工学―インタラクティブシステムの人間中心設計

規格の位置づけ

JIS版が公開されたという話を聞き、公開当日の1月21日にすぐさま購入し、ダウンロードしたのだが、それを見ていて気になったことが幾つかある。

まず最初に、表紙の次のページに「日本工業標準調査会標準第一部会 高齢者・障害者支援専門委員会 構成表」というのがある。「日本工業標準調査会標準第一部会」が、この規格の翻訳についての審議部会という位置づけになっているのはいいとして、なぜ高齢者・障害者の専門委員会が「インタラクティブシステムの人間中心設計」に関する規格の審議専門委員会になっているのか、他に適切な委員会はなかったのか、分からないままなのだが気にはなる。

user interface事件

それはともかく、ざっと本文を通読してみて僕が一番気になったのは、「ユーザー」と「ユーザ」が混在していることである。旧版のJIS Z 8530:2000でも「ユーザー」という表記を使っていたのだが、これはTC協会(テクニカルコミュニケーション協会)の出した「外来語(カタカナ)表記ガイドライン」(第三版は2015年刊行)にしたがったものである。

当時、JIS化委員会の委員長をしていた僕は、TC協会系の委員の人たちの指摘に、その背景を良く調べることなく従ってしまったのだ(これは反省事項)。ただ、TC協会は、マニュアルや取扱説明書を作成する担当者の団体であり、各当該領域の専門家(domain expert)の団体ではない。TC協会は、2006年に「カタカナ用語不統一表記に関するアンケート」調査結果という文書を公開しているが、その調査に協力した人たちは、メーカー社員30人、制作会社や印刷会社の社員15人、フリーランスライター3名など、合計52名である。ここのメーカー社員というのもTC協会の担当領域に近い人たちであったと想像すると、少なくともインタラクティブシステムに関連した用語の専門家は含まれていなかったのではないかと想像される。

一般のマニュアルや取扱説明書がこのガイドラインに準拠するのは構わないが、ISOの規格までが準拠すべき根拠は見当たらない。いいかえれば、ヒューマンインタフェース学会など、インタラクティブシステムを専門に扱っている学協会では、「ユーザー」ではなく「ユーザ」と音引きしないことが多い。その意味では、JIS Z 8530:2000においても、専門領域の専門家の立場から「ユーザ」という表記を使っていても良かったのだが、残念ながらそうなっていない。

そこでTC159/SC4/WG6の日本委員会で議論になったのだが、焦点はuser interfaceの訳語をどうするかという点にあり、user全体についてではなかった。その時まではWG6の委員をしていた僕はアカデミアの立場から「ユーザインタフェース」を支持した。議論の末、「ユーザ」派が大勢を占め、結果的にユーザとすることに決定された。しかし、それ以外のuserは「ユーザー」のままだったため

多くの組織では,内部のユーザインタフェースのスタイルガイド,製品知識及びユーザーに関する知識並びにユーザーの期待(JIS Z 8907 参照)及び固定概念といった利用状況の他の側面を保有している。(6.4.2.3より)

というような両者が混在する文面となってしまっている。これはいかにも統一を欠いていて規格の文章として好ましくない。次の改定では、どちらかに統一されるべきだろう。

stakeholderの訳

Stakeholderという単語はISO 9241-210:2010になって導入されたものだが、これにシンプルに利害関係者という訳をあてていることも気になることのひとつだ。もともとは、人間中心設計の規格にstakeholderという単語を入れたISO規格の方に問題があるのだが、そもそもユーザ以外にその満足を考慮してあげるべき人間中心設計の関係者はいるのだろうか。利害関係者となれば、企業幹部や株主も含まれてくる。彼らはユーザビリティUXを提供することより、利潤を最大化することに関心がある。そうした人たちを人間中心設計の規格に含めたこと(これはISOの問題)、そしてシンプルにそれを利害関係者と訳してしまったこと(これはJISの問題)は再考を要する。強いて訳すとすれば「ステークホルダ」としてしまうことも考えられただろう。

ところでISO規格を翻訳してJISとする場合には、IDT (identical)とMOD (modified)とNEQ (not equivalent)という整合度合の区別がある。IDTは編集上の最小限の変更を除き完全に一致している場合、MODは章立てや文言が異なるなどの技術的差異が含まれる場合、NEQは内容や構成が同等ではなく、差異も明確に識別されていない場合である。前回のJIS Z 8530:2000はIDTだったが、今回のJIS Z 8530:2019は、付属書Aを不採用としており、(編集部注:日本規格協会のサイトによれば、「IDT」とされているが)MODと見做せると思う。だとすれば、もっと内容についてもJIS化委員会で審議して、stakeholderが不適切な用語だということになれば、カタカナ表記にもせず、それをごっそり削除してしまっても良かったのではないか。いささかスタンスが不明瞭だったように思われる。

実際、ISO 159/SC4/WG6の委員会に参加してきた経験からも、そこでは実に様々な議論が戦わされており、各議題について全委員が前向きな姿勢で賛同を示すような場合はあまり多くない。いいかえれば、エディタを中心とした人たちが異論を押し切るような形で決着をつけることも多いのだ。そういう状況を実際に見ていれば、文章となった規格を読んでみて、不整合や不適切さを感じ取る部分がでてくるのは不思議なことではない。であれば、最初からMODのスタンスに立って、日本はISO 9241-210:2010をベースにした独自の規格を作ります、という姿勢で取り組んでも良かったのではないだろうか。つまり、このJIS Z 8530は、ISO 9241-210の持っていた問題点を、MODでありながら、結果的にはそのまま忠実に和訳してしまったことになる。

まあ、そういうことを言い出すと、「要求仕様書」という形でユーザ要求については語っていても、システム要件の方については触れていないこと、サービスも人間中心設計の対象に含めるといいながら、それに対する取り組み方が全く示されていないこと、ユーザエクスペリエンスというキーワードを導入したものの、それとユーザビリティの関係性が明確に記述されていないこと(たとえば性能や信頼性の向上はユーザエクスペリエンスと関係あるのかないのか、ということが書かれていない)、6.5.4のuser-based testingを「ユーザーによる試験」と訳しているが、これはユーザビリティテストのことではないのか、取ってつけたように持続可能性について言及しているが、この概念はこの規格において本当に必要なものなのか、また適切十分に記述されているのか、などなどの問題がうじゃうじゃとでてきてしまう。

解説について

末尾につけられている解説では、それぞれの訳に至った経緯や考え方が示されているが、たとえば「人間中心設計活動の相互依存性」については、矢印やフィードバックについて言及されているものの、ISO 13407では楕円であった「人間中心設計の必要性の特定」が、「人間中心設計プロセスの計画」として矩形、つまり活動と同じ表現で含まれていることについては言及していない。これはJIS化委員会の考え方にもよるが、計画の段階から人間中心設計は始まっていると考えるなら、四つの活動ではなく、五つの活動としてとらえるべきだろう。

全体として、いろいろ委員会内部で議論はしたものの、結局は原文に忠実に訳す、というスタンスを基本として作成されたJIS規格のように思われ、それはいいかえれば、MODとしてのスタンスを明確にし、積極的にISO規格の内容の不整合や不適切を指摘し、改定していくという姿勢ではなかった、ということになる。SC4/WG6のなかで積極的に活動している日本側関係者のスタンスからすれば、次のISO 9241-210の改定においては、日本でまとめられたJIS規格のように改定すべきだ、という積極的な提言を行うチャンスでもあったわけで、その点が惜しまれる。

いずれにしろ、ISO 9241-210:2010は制定からすでに9年が経っている。そろそろISOの方が改定されるべき時期にきているのだ。そうした動きのなかで、次のISO規格では、もっとしっかりした内容の規格にするように関係者が努力し、問題がない規格になっていれば、結果的にそれを翻訳するJIS規格もMODにする必要はなく、IDTでも良いということになるのではないだろうか。

ともかく、こうしたISO規格を翻訳してJIS規格とする場合には、関係者、特に中心となる人たちは、日頃からISO TC159/SC4/WG6の活動をウォッチしておき、周囲の関連規格の状況や過去から将来に至る議論の流れを把握しておく必要があるだろう。当該規格だけを英文和訳するのがJIS化の仕事ではないのだから。

お詫び

初出時、JISの番号を「JIS Z 8350」と記しておりましたが、正しくは「JIS Z 8530」でした。申し訳ありませんでした。

公開: 2019年4月15日
著者: 黒須教授