低成長社会におけるLX(生活経験)

これからの世の中には、基幹産業といえるものがなかなか見えないのではないか、と思えてくる。この低成長の時代において、製造業やサービス業はどのような進み方をすればいいのだろう。

  • 黒須教授
  • 2021年11月16日

高度経済成長の時代

これから20年、30年後の世界がどうなっているか、見当がつかない。しかし、少なくとも戦後復興を果たした1955年から第一次石油ショックの1973年までの間の高度経済成長期のような高成長社会にならないだろうことは確実だろう。

高度経済成長を支えたのは、技術革新や設備投資と労働力確保だったとされるが、その背景に、生産される製品を消費する人々の生活水準向上に向けた強い動機付けがあったからでもある。家庭における耐久消費財の普及は、そうした原動力があってのことである。

なお、高度経済成長期には、労働力が都市に流入したことにより、第一次産業である農業などの従事人口が減り、地方と都市の格差が拡大し、都市の過密化、地価の高騰などが発生した。特に東京圏への集中は目覚ましく、増加した人口を吸収するための団地造成も盛んにおこなわれた。

だが、高成長社会が一段落し、家庭への耐久消費財の流入も一段落し、製造業は何をつくればいいかを模索する時代に入った。その中で突出していたのが1980年代から盛んになった情報通信機器、つまりパソコンやマイクロコンピュータチップを中心としたICT産業だった。半導体の集積度はムーアの法則にしたがって急上昇した。さらにインターネットの普及は新たなサービス産業を引き起こし、ICT機器の利用を促進した。そしてパソコンの普及の後にやってきたのはスマートフォンの時代だった。今では、パソコンを使えないかわりにスマートフォンを使いこなすような若者たちも増加している。また、ドローンの普及や、安価な監視カメラの登場、自動車における自動運転化の動きなども顕著になり、現在に至っている。

これからの基幹産業

しかし、これからの経済を牽引していくような力のある基幹産業は何なのだろう。スマートフォンは機能的飽和状態に達していて、iPhone 13などはカメラ機能に特化して一般に必要とされる以上のハイスペックになっている。Galaxyの二つ折りスマートフォンは、ガラケーへの退化とも見ることができる。

ドローンは性能的にどんどん進化しているが、利用目的は飽和しているように思う。ドローンを利用して荷物を宅配するというのは、山間僻地や離島などではありうるだろうが、込み入った都市部では無理だろう。要するにマイナーな市場ということだ。

自動車の自動運転も、比較的容易に想像でき実現できるところまでは来てしまった。都内の交差点のような複雑な場所で信号機を正しく認識し、周囲状況を勘案しながら運転をするようなレベルに到達できるまでには、まだかなりの進歩が必要とされるだろう。

ロボットについても、Boston Dynamicsのビデオに見られるようにかなりの進歩が見られるが、CGで作成されたようなロボット三原則をまもりつつ敵への攻撃を行うようなロボットが実現できるためには、メカトロの進歩だけでなく、人工知能のさらなる発展が必要になるだろう。

それでは人工知能の進歩はどうなのか。たとえばスマートスピーカーに見られるような音声対話はどこまで進歩できるのだろう。MITテクノロジーレビューというウェブマガジンでは、最近、人間の意識など心の問題と科学技術の到達点について記事を掲載することが多いが、それらを読むと、目標とする水準に達するのはまだまだだと思わされる。しかも、ディープラーニングでは、その判断の妥当性を確実に判定する技術も確立できていない。

このように考えると、これからの世の中には、基幹産業といえるものがなかなか見えないのではないか、と思えてくる。ICT関連、特に人工知能やロボティクスではこれからも進歩が続くだろうが、国内の保健所がいまだにFAXでやりとりをしているような現状では、まずそういったあたりの底上げをするための地道なDXの取り組みこそが必要なように思われる。

基幹産業なき時代の生活経験

このように産業界を牽引する強力な基幹産業がない時代、いいかえれば低成長の時代において、製造業やサービス業はどのような進み方をすればいいのだろう。歴史を振り返れば、近世以前の社会では、さほどの高成長がなくても人々はそれなりに暮らしてきた。どの程度、人々がその状況に満足していたかはわからないが、少しずつ進歩する技術や社会システムにそこそこの新規性を感じながら、その時々の時代に適応していたのではないかと想像される。

それと同じような状況が、激しい技術的進化を遂げてしまった近現代に続く将来においても可能なのだろうか。いったん進歩の味を占めてしまった人々が、代わり映えのしない機器やサービスに満足するようになるのだろうか。市場が冷え込んで不況がやってくるのではないか、と心配する人がいるかもしれない。

現在の市場において、たとえば白物家電を見てみると、その代表格である冷蔵庫などは代わり映えしていない製品の典型例といえる。ドアがガラスになってみたり、両開きになったりといったマイナーな変化はあったものの、冷蔵機能と冷凍機能をもった基本機能には大きな変化はない。それでも人々は冷蔵庫を購入している。もちろん新機種がでたからという理由で購入するわけではなく、転居による新規購入や故障による買い替えというケースが多いだろうが、「冷蔵庫というのはこんなもの」という意識が消費者の頭のなかに存在しており、以前よりちょっと容量の大きなものを選択するといった程度の変化で満足しているのだろう。それは積極的な満足ではないかもしれないが、不満足ではない。

同じようなケースは、電子レンジ、炊飯器、エアコン、など多くの家電製品について当てはまるだろう。そしてスマートフォンや自動車についても当てはまるようになるのだろうと思われる。

このような生活環境は変化に乏しくなる。しかし、それが人々に不満を抱かせるかというと、多分、最低限の絶対的な要求水準というものがあって、それを下回らないかぎり、人々はそれほど強い不満を抱かないのだと思う。もちろん、人には新規性を求める心性があるから、そこそこの新規性や審美性は求められるだろうが、決定的な要因にはならないだろう。いいかえれば、これからは、信頼性や安全性、互換性などの品質特性、そして機能性やユーザビリティなどに少しずつ地道に磨きをかけてゆく時代になるのではないかと僕は予想している。

大きな天変地異とか戦争とかがおきて生活環境が壊滅的な打撃をうければ、人びとはその結果としてもたらされるネガティブなレベルからゼロレベルへの復旧を目指して一生懸命活動するだろうが、そうしたことがなければじわじわと品質改善を進め、ゆっくり一歩ずつ前にすすんでゆくという、そんな時代になるのではないかという気がしている。だからこそ、開発者やデザイナーは革新的な進歩という夢を求めてイノベーションというキーワードに惹きつけられているのだが、結局のところ、それは見果てぬ夢なのではないか…などと思っている。