適切なメンタルモデルと社会的受容性

システムイメージの作成に関わる人々、特にデザイナー諸氏は、情報感度を上げ、理解力を深め、正義感をもってユーザに対して適切なシステムイメージを提供し、そのメンタルモデルが的確に構成され、技術の誤用や悪用が防止されるような社会を作ることに責任があるといえる。

グランドチャレンジについてのHCIIの考え方の解説が滞っているが、そこで示されるHCD 2.0の時代においても今回の話は重要なことなのでご容赦いただきたい。

原田論文について

HCIの問題に関心を持ちながら認知心理学の分野で活躍しておられる筑波大学の原田悦子氏が、ヒューマンインタフェース学会誌, 21(2), 2019に「社会的受容という幻想とヒューマンインタフェース研究の役割」という論文を発表された。今回は、これに触発されて考えたことを書きたいと思う。この論文は、技術なりそれを利用した製品やシステムが社会において受容されるための条件を考察したものだが、そこで重要になるのがメンタルモデルの考え方である。

ノーマンのメンタルモデル

有名なノーマンのメンタルモデルについては『誰のためのデザイン?』に紹介されているが、これには二つのバージョンがある。最初は、図1の1990年版(原著1988年)のものであり、次は、図2の2015年版(原著2013年)の図である。図1が有名になったのは、「デザインモデル」と「ユーザのもつモデル」のズレがユーザビリティの問題を引き起こすという説明が分かりやすかったからであり、適切なシステムイメージを媒介とすることで、ユーザは適切なメンタルモデルをつくりあげることができる、つまりデザインモデルとユーザのもつモデルとのズレを最小化できるのだという説明に説得力があったからだった。

これが契機となって、良いシステムイメージを提供しよう、というかけ声とともに、マニュアルや取扱説明書の改善運動が活性化したことも思い起こされる。

なお、図1と図2では、表現に若干の変化があるが、さほど大きな問題ではない。いずれにせよ、ここで特に注目すべきなのが、ユーザのもつモデル(ユーザの持つ概念モデル)というユーザのメンタルモデルである。

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図1 『誰のためのデザイン?』 1990年版(原著1988年)の図
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図2 『誰のためのデザイン? 増補・改訂版』 2015年版(原著2013年)の図

社会的受容性とメンタルモデル

さて、原田氏はこの論文で、まず社会的に受容されない技術は、最終的には広まらず、利用されず、生き延びることはできないという昨今の社会的通念に対して、本当に、科学技術は『最終的には人間が、受け入れるかどうかで実際に使われるかどうかが決まるもの』なのだろうか?という問題提起を行っている。

ここでは社会的受容性というキー概念の定義が欠落しているので、世の中で使われて(しまって)いればそれは社会的に受容されていると言えるのではないか、という反論が出てきてしまいそうだが、原田氏のいう社会的受容性は、社会に暮らす生活者がそれなりの理解をベースにして能動的な意志をもって受容する、という意味合いなのだと思う。知らず知らずのうちに社会的に普及してきて何となく取り残されそうな気がするから使うことにしよう、という形での受容、つまりロジャースのイノベーター理論における正規分布の右半分の人たちのような受容のことではない。そう考えればニールセンが言う社会的受容性(social acceptability)にも通じるものがあるだろう。

その事例として取り上げられているJiboの事例は、この文脈においてあまり適切なものとは思われないが、もし、技術というものへの、社会的あるいは個人での『受容するか否か』を個人の制御の下に行っていくことを目指すのであれば、実際にそれを利用する際には、制御の対象となっているものについて(そしてその制御の形について)『それ』とわかっていなければならないのではないかという指摘は適切なものだと思う。

この、「それ」とわかることというのは、言い換えれば適切なメンタルモデルを持てること、そしてそれを持つことなのだ。ユーザが個々の技術的詳細までを完璧に理解することは不可能だし、そこまで要求されるとしたら世の中はうまく動かなくなる。だからユーザは、メタファを利用したりしながら、その動作原理やリスクについて「それなりに」理解し、技術の所産を利用するという程度でいいのだと思われる。

だからユーザである人が『理解すること』を放棄し、『だれかが制御しているはず』という形で次々に技術を受け入れていくことこそ、技術という怪物の動きを無限に加速させている元凶ではないだろうかという指摘にもつながるわけだ。そして必要なレベルで個人からの制御を可能とする『機能』を持たせると同時に、それを『人にいかに見せるか』という技術が必要となっているのではないかとも書いている。

これはユーザに適切なメンタルモデルを持たせるためのシステムイメージをちゃんと提示すること、そしてその提示の仕方を分かりやすくすること、と言い換えることができる。そして原田氏は最後にヒューマンインタフェースの研究・実践の重要性を、今こそ自覚するときであるとHCIの研究者や開発者を叱咤激励している。

適切なメンタルモデル構築のためのシステムイメージ

ただし、ここでいう「実践」というのは結局のところ適切なシステムイメージをユーザに提示するという作業であり、従来であればマニュアルや取扱説明書の作成を担当するテクニカルコミュニケータの仕事を指すことになるだろう。しかし、それらの文書があまり読まれないことが分かってきた現在においては、技術開発とユーザの間に介在するデザイナーの仕事を指していると考えるのが適当だろう。

現在のデザイナーは、色・形と素材を扱う意匠担当者ではなく、コンセプトデザインをその仕事の一部とし、認知心理学などの理解もその要件とされるような職位になってきており、まさに彼らがその責を担うべきだ、ということになる。

メンタルモデルとシステムイメージ

メンタルモデルとシステムイメージの良好な関係は、実際にシステムイメージが適切に提示されてきたかどうかは別にして、HCI以前のHIの時代から必要とされてきたものである。

たとえば、湯を沸かすには水の入ったヤカンを火にかける、古代(当時はヤカンとは呼ばなかっただろうが)から人々が行ってきたこの日常的な行動を考えてみよう。ここではシステムイメージはユーザサイドで自発的に生成され、メンタルモデルの構築に関わってきたものと考えられる。つまり、水を熱くするために、熱い火に直接水をかけたのでは火が消えてしまう、ヤカンなどの金属は火で燃えてしまわない、しかも金属を火にくべると熱くなる、だったら金属でつくった容器に水をいれて火にかければいいのではないか…まあ、こんな解説を(自分で)考えて、人々はヤカンを使ってお湯を沸かしてきた。

こうしたメンタルモデルを持っているから、レジ袋に水をいれて焚き火にさらすとキャンプ場でお湯をわかすことができます、という話を聞くと皆びっくりするのだ。レジ袋はプラスチック製で火にかけると燃えてしまうという知識があるからだ。そして人々は熱の伝わり方についての追加知識を取得し、メンタルモデルを補強することになる。

メタファやブラックボックス

こういうシンプルな仕組みの場合には、機器の開発者がわざわざメンタルモデルを提示する必要はなかった。しかし産業革命以来、複雑な機械類が登場してくると、人々が開発された機器類を受容するにはメタファやブラックボックス化をベースにしたメンタルモデルが必要になった。

馬車にかわって自動車が登場した時にはおそらく、「自動車には馬に相当するエンジンというものがあって、それが自動車を動かすんですよ」といった類いのメタファで人々は満足していたのではないだろうか。そしてエンジンの動作原理についてはブラックボックスとして一般の人々は知らずに済ますことができた。

免許制度が一般化し、自動車の構造についての教育がなされるようになると、ははーん、そうなのか、でも、ま、いいや、とにかくそれで動くんでしょ、といった程度のグレーボックスで済ますようになったことだろう。けれど、スパークプラグがガソリンの燃焼に必要だという知識くらいは持っているから、1970年代あたりの僕は、エンジンの調子が悪くなるとスパークプラグを取り出して磨いたり交換したりしたものだ。

要するにブラックボックス化というのは、日常的に必要になるようなメンタルモデルの鍵となるものだった。一般のユーザは詳細で正確なモデルを持つ必要はない。ただ、モデルの入出力関係が日常生活において適切な範囲のものであれば、生活に不都合はない。

AI, Robotics, IoTの時代のメンタルモデル

しかし世の中がAIやRoboticsやIoTを利用して動くようになると、なかなか適切なメンタルモデルが持てなくなってしまった。いいかえれば、適切なシステムイメージが提示されておらず、すべてブラックボックス化してしまい、専門家まかせの時代になりつつある…こうした危機感が原田氏を執筆に駆り立てたのだろう。

専門家に信頼を寄せるのはいいだろう。ただ、それが企業利益や国家機密などに関連してきた場合、故意にシステムイメージは歪められてしまう可能性がないわけではない。このあたりは日常生活者としては十分に警戒しなければならない。今や世の中には監視カメラが充満し、顔認識技術はどんどん向上し、SNSでやりとりする情報は覗き見され、明示的な宣伝の形をとらない情報流通が人々の精神を蝕みつつある。

こうした危機やその可能性について知らずにいることは、人々を技術とそれを悪用する連中の餌食にし奴隷にしてしまうことになる。そのためにもシステムイメージの作成に関わる人々、特にデザイナー諸氏は、情報感度を上げ、理解力を深め、正義感をもってユーザに対して適切なシステムイメージを提供し、そのメンタルモデルが的確に構成され、技術の誤用や悪用が防止されるような社会を作ることに責任があるといえる。そして技術を「適切な」社会的受容がなされるようにしていかねばならない。

公開: 2019年7月30日
著者: 黒須教授