シナリオに乗せられる経験とユーザの主体性

「ユーザの主体性を尊重するように設計しろ」は、ユーザビリティやUX原則の基本のひとつである。ここで話したいのは、人工物は、ユーザが自分の目標を、不自由を感じることなく設定することができ、そのための手段が適切に提供されている必要がある、という点である。

  • 黒須教授
  • 2020年12月14日

筆者は、他人の描いたシナリオに乗せられることを不愉快に感じる。程度問題でもあるし、やむを得ない場合もあるが、自分の主体性や自律性が損なわれるような気持ちになることは、できるだけ避けたいと思っている。ユーザの主体性を尊重するように設計しろ、とはユーザビリティ原則の基本のひとつであるが、それは人工物を利用した段階で主体的に経験を行えるという意味ではUX原則の基本のひとつであるともいえる。

ユーザは人工物を利用するときに何から何まで自由気ままに行動できるわけではない。炊飯器を利用してトーストを焼くことはできないし、掃除機を使って流し場の掃除ができるわけでもない。まして、のリモコンを使って電灯のオンオフができるわけではない。達成したい目標に関して適切にそれを支援してくれる人工物を選ぶことは、ユーザとしての行動の基本である。そこまでを制約というのなら、なんでも希望を叶えてくれる万能ロボットが無ければならないだろう。話のポイントはそこにはない。

ここで話したいのは、ユーザの目標設定の自由度とか、そのための手段の提供ということであり、人工物は、ユーザが自分の目標を、不自由を感じることなく設定することができ、そのための手段が適切に提供されている必要がある、という点である。

ゲームの場合

そこまで考えてゲームをしている人はいないかもしれないが、他人の描いたシナリオにのせられるのが嫌だからという理由から、筆者はゲームをしない。しないから人並み以上に下手である。下手だからやってもつまらない。つまらないからゲームをする気にならない。こんな循環に陥っている。ただ、筆者は必ずしもこれを悪循環だとは思わない。そんなことしてても時間の無駄だ、という開き直りがあるからだ。時間の無駄ということは、得るものがなく、時間を失うだけだ、ということである。前述の循環を断ち切れば、時間を無駄にするという闇に落ちる。大げさにいえばそんな感じである。

昨日、オンライン飲みをしていてゲームの話になり、そのときに言われたのが「(あなたは)他人の思惑にしばられるのが嫌いなのでは」ということだった。たしかにそうかもしれない。ゲームってものは、ゲームデザイナーが作った人工物だ。最近ではアルゴリズムのなかにAIが使われていることもあるけれど、「そこにAIを入れよう」ということもデザイナーの思惑のひとつである。

いいかえれば、ゲームをするということは、デザイナーという他人が設定した世界のなかに入り、その世界観(この表現は大げさで嫌いである。単なる状況設定という言い方でいいではないか)を理解し、また受け入れ、デザイナーが許容した方向で物事を考え、デザイナーが決めたルールを学習し、デザイナーが埋め込んだものを発見して喜びを感じ、それらにしたがって「生きていく」ことになる。ゲームのなかにはいろいろな要素が詰まっていて、多様な経験ができるようであるが、結局のところ仏の両手の間を飛んでいる孫悟空のようなものである。

先日、YouTuber達がやっているDead by Daylightというゲーム中継を見ていて、改めてその感を強くした。そもそもなんでこんな争いの場に入ってしまっているの、というのが最初の疑問。暴力集団の抗争なのか、戦争なのか、それぞれの主張は何なのか、なんてことは全く説明されない。中東の紛争地を舞台にしてゲリラと戦うという設定なら、まだ現実の世界との連続性があるから、それなりに理解もできるのだが、こんな恐ろしい世界にいきなり入ってしまっていることがまず理解できない。

まずそこで引っかかったのだが、それはまあ置いておくとするなら、次に、その場面において何をすればいいのかが分からない。しばらく見ていて、その状況から脱出することが目標だというように理解できたが、出口はどこにあるのかが分からない。チロチロと見える人影は味方なのか敵なのかも分からない。何やら発電機らしきものをいじるのが大事なんだということがYouTuberの口から聞こえ、はあそうなんだ、とは「理解」した。発電機と出口の関係は全くわからないままである。敵方に見つかって掴まると木につるされて、仲間が下ろしてくれるまでは動けないということも分かってきた。

とにかく不条理の世界である。まあ現実の紛争だって、事情のわからない子どもであれば、そのような状況に陥るといえば、そうなのだが、目標が明確でなく、手段もはっきりしない状況で、とにかく身に迫る危機から逃げ回るということのどこが面白いのか分からず、その中継は途中で切った。本当に何が面白くてあんなゲームをやっているのだろう。僕にとっては大いに時間の無駄であった。いや、ゲーム好きの人たち、すみません。どうも皆さんと僕とは住んでいる世界が違うようです。

小説や映画や音楽の場合

人工物でも、ゲームに近いものとしては、小説や映画や音楽などがある。どの場合にも、ユーザは、自分の意志でその世界に入り(あるいは入れてもらい)、作者の描いた筋書きを時間を追ってたどってゆく。その途中、ここでそんなことをするか、ここでそうくるか、といった印象をもっても、作者の(ある意味での)強引さに付き合わざるをえない。そして、作者が設定した終末にたどり着き、ああ、こういう風に終わるんだ、ということになる。一頃流行った実験的な小説などでは、途中に分岐が設定してあって、そこでユーザがどのような選択をするかによって、筋が変わってゆくというものがあったが、ゲームの世界では普及したが、小説としてはあまり普及しなかった。

小説や映画や音楽の場合には、ユーザは受動的になり、先読みをしたりすることもあるもの、基本的には、その世界の制約条件、つまり世界観を受け入れてゆかねばならない。あまりに先が見えすぎたり、退屈だったり、強引すぎたりしたばあいには、鑑賞を中断するという「能動的行為」をすることもできるが、そんなに多いことではない。

つまり、小説や映画や音楽のようにシナリオや筋書きのある人工物でも、ユーザはデザイナー(作家や脚本家、作曲家)の思惑にしばられ、自由を失ってその世界の制約条件にしたがった行動をする。そして、それを苦痛とは思わず、むしろ楽しんでいる。それならばゲームの場合もすなおに「デザイナーの思惑」にしたがっていれば楽しい経験ができるのではないか…ということになる。

音楽の場合、特にクラシックの場合なんかは同様である。最初から最後まで覚えている好きな音楽なら、ここでこうなる、ここはもっと滑らかにしてほしいなあ、ここはもっと速く、とかいろいろ思いながら全体を聞いているが、聞き込みの少ない、たとえば僕の場合でいえばマーラーの交響曲などは、ああ退屈だ、これ、もう付き合いきれません、と途中で停止ボタンを押すことになる。自宅の音響機器で再生している場合はそれでいい。しかし演奏会場だと、途中退席するのもいささか憚られるので、退屈を我慢して最後まで聞いてしまう。まあ時間的にそれほど長い時間ではないから、人生を無駄にしたと思うほどではない。しかし、作曲家の書いたシナリオに無理矢理はめ込まれてしまうという点では、ゲームの不自由さに似通ったところがある。

人工物のデザインの場合

アーティストやデザイナーが設定した範囲でものごとを経験し、それをつみかさねていくという意味では、一般の人工物についても同じようなことがいえるかもしれない。つまりユーザは、デザイナーが作った世界のなかで、その人工物の許容する機能や使い方の範囲内でいろいろなことをやっているに過ぎない、といえるだろう。

自動車の運転では、ペダルやハンドル、レバーや計器類など、あらかじめデザイナーが設計した仕様にしたがって取り付けられている部品類を操作しており、しかもその部品が許容する範囲内でしか操作は行えない。テレビのリモコンだって、用意されているボタンとそれに割り付けられた機能しか使えないし、それらはすべてデザイナー(設計者)が設計したものだ。ウェブサイトだって、いろいろなページを遷移することはできるものの、それらの画面すべてはあらかじめデザイナーが設計したものである。

そうした意味では、デザイナーの設計した世界のなかでしか、われわれは生きて行かれないことのように思う。さらにいえば、新製品と言われるもののうち幾つかは、新たな目標を生活に与えるようにして市場にでてくる。GoProなんかはそれに近いだろう。その機器によって生活における新たな目標が設定される。そんなこともあるわけだ。他人によって設定された目標が自分の目標として内化されるわけだ。だとしたら、ゲームと一般の人工物にどういう違いがあるというのか。そこを改めて考えてみたい。

一番大きな違いは、一般的な人工物は、基本的にユーザの目標達成を支援するために用意されており、ゲームや映画や小説や音楽では、目標はデザイナーやアーティストが設定し、それを受容することが要求されている点である。設定された目標を自分の目標として同一視することによって、その世界のなかに没入し「楽しむ」ことができるようになっているのだ。つまりゲームや映画や小説や音楽では、自分自身の目標設定という主体的自由を一時的にせよ放棄しているのだ。

まあ、筆者自身、映画や小説は好きで数多くを鑑賞しているが、やはり自分と世界観(ここでは状況設定ではなく世界観である)の近寄った作者や監督による作品を好んでいる。我慢して見たり読んだりしていても、ああ、もうこいつには付いていけないと思うことは多々あり、そういう場合には鑑賞を中断する。

一般的な人工物の場合も同様で、その機能や操作性が自分の個性に適合しない物だと、値段にもよるが廃棄してしまうことが多い。そうすることで、自分の主体的自由を守ろうとしているのだろう、などと考えている。

ユーザの主体的自由

こんな風に考えていると、僕の好きな「そんなのはいやだ」というアンパンマンのマーチが聞こえてくる。

なんのために生まれて
なにをして生きるのか
こたえられないなんて
そんなのはいやだ!
(作詞: やなせたかし、作曲: 三木たかし、歌: ドリーミング ©2001 Interrise Inc.)

ちょっと大げさに解釈すれば、この歌詞は、自分の人生を自分の意志で決定し、自分の思うように主体的に生きていくことの大切さを歌っている。ゲームや映画や小説に典型的だった、筋書きに載せられてしまう経験というものは、その意味では、一時的ないし短時間であっても、主体的な自由から逸脱してしまうことである。

いや、現実の生活の方が組織社会の制約に縛られていて自由がないんだよ、ゲームや映画や小説の方にこそ、想像力の自由な飛翔があるじゃないか、という声も聞こえてくる。そういう選択がありうることは当然予想される。

しかし、改めてやなせたかしの歌詞を読んでみれば、現実世界において自分で自分の生き方を決定するという主体的自由のすばらしさ、そしてそれを求めて生きることの大切さが感じられないだろうか。

シナリオ手法との関係

ゲームや映画などのシナリオの話をしたので、ついでにシナリオ手法についても触れておこう。それと関連したペルソナ手法についてはまあまあという印象で位置づけているが、シナリオ手法については、その強引さをむしろ批判的に書きものにすることが多かった。特に、シナリオに登場するペルソナが自発的主体性を持っていないように描かれるシナリオについては批判的だった。企業側に都合のいい行動をするペルソナを見て、どうしてそこでそういう行動をするのか、という彼、彼女らの内的動機付けが明確になっていないシナリオは単なるご都合主義の産物でしかない。いまでもそのように考えている。

そして、そのようなシナリオが実際のゲームや映画などになったとき、それは僕の尻の穴をモゾモゾさせる気分の悪いものになるわけだ。

ユーザはどうすべきか

最後に、そうした世の中で、ユーザはどうすべきかについて簡単に触れておきたい。それは要するに、シナリオにだまされるな、シナリオを信じるな、シナリオが気にいらなければそこから離脱せよ、ということになる。少なくともユーザは「利用を中止する」という主体的選択肢を持っている。そのことに気づかずにダラダラと企業の作ったシナリオに乗せられていたのでは、いつまでたっても主体的自由をもったユーザにはなれないだろう。

ただ、他に選択肢がない、あるいは選択肢が限られている世界で生きていくのはむつかしい。パソコンの基本ソフトでも、MS製、Apple製、そしてLinuxといったところしか選択肢がない。だから多くのユーザは仕方なく、それらの選択肢のどれかを選び、またアプリにしても「選択」という形で行動し、そこに選択主体というささやかな主体性を発揮するしかない。自分でシステム開発ができる力をもった人、たとえば慶応大学の増井俊之氏のような人物であれば、本当の意味で主体的に自由に生きてゆくことができるだろうけれど。