経験想起法

ERM: Experience Recollection Method

以前に開発したUX Graphには、時間経過とともに曖昧になる人間の記憶に基いた主観評価値を、グラフの形に描いていいかという疑問があった。そこで思い切ってグラフを削除した経験想起法を提唱するに至った。

  • 黒須教授
  • 2017年2月1日

UXという概念の現状

早いものでUXというバズワードはもうそろそろ新鮮さを失ってきてしまったように思う。デザイン思考とかサービスデザインというバズワードも同様だ。新しいキーワードを使って聴衆や読者を魅惑しようとする人たちは、さらに新しいものを求めてそれを探し回っていることだろう。しかも、日本の場合、その活動は主にアメリカでの動きをみつけ、他人より先にそれを日本に紹介して鼻高々となる、そんなパターンが多い。

ところでUXという概念は、1990年代にNormanが提案したものだが、その発想は良かったものの、まだ掘り下げが十分ではなかった。その後の、特に欧州での議論を踏まえ、さらにISO/IEC 25010の考え方を取り入れて、僕は僕なりの概念構造を提案した。これについては稿を改め、2016.11に行われたISOのミーティングでの議論を踏まえて、また詳しく紹介したい

シンプルに言ってしまえば、ユーザビリティなどabilityという語尾を含む多くの品質特性はcapability、つまり能力に関するものであり、その結果としてのユーザ経験(UX)とは直接関係しない、ということだ。そしてUXは、そうしたcapabilityを持つものを実際の利用状況で利用した時の経験、ということになる。要するに順序関係があるのだ。だからすばらしいUXをデザインしましょう、などというUXDという概念はとんでもなく間違った発想だ、ということになる。UXというのは、そこに学ぶものであって、それを作り出せるものではない。

UX評価法

では何を学ぶかというと、ある製品やサービスが実際にユーザにどのように受け入れられたのかを学ぶのである。それがUX評価法である。UX測定法といってもいいが、得られた結果を設計にフィードバックして活用するという意味では、UX評価法といった方がいいだろう。

ところでUXには期待から始まる幾つかのフェーズがあるという考え方は、UX白書が出されて以来、少なくとも日本ではかなり広まってきているように思う。さらにUXは個人的なものであり、時間経過とともに変動するものだという理解もできてきているように思う。その意味でUX白書の意義は大きいし、それを日本語に翻訳してくれたhcdvalueの皆さんの努力は意味のあるものだった。

図
ユーザーエクスペリエンスの期間(「UX白書サマリー資料20111015」p12より)

ともかく、UXについては、それを定点観測してこれこれの製品やサービスのUXは100ポイント中58ポイントでした、というような言い方をしてもあまり意味が無い。それよりも時間変動のなかで「その時」にはどのようなエピソードがあり、どの程度の満足感を得ていたかを測定することに意味がある。

UXの評価法にはESM(experience sampling method)のようにある時間範囲のなかで定点観測を繰り返し、問題点を評価させるリアルタイム手法と、UX Curveのように現在から過去に遡って主観評価値の変動をとらえようとする回顧的な手法とがある。前者にはユーザの生活に対する侵襲性という問題があるため、あまり長期にわたる調査は困難である。それに対し、後者の回顧的手法は、あくまでも現在という時点から振り返っての評価であり、過去のそれぞれの時点における評価値を忠実に再現しているという保証はないが、利用開始前の期待値から始まって現在に至る評価を求めることができる。

僕はUX Curveのそうした利点に注目し、その修正版といえるUX Graphを開発したが、実は不満も残っていた。特に自分ながら問題に思っていたのは、グラフの横軸である。これは時間経過を表すものだが、記憶心理学を持ち出すまでもなく、人間の記憶は時間経過とともに曖昧になることが知られている。したがって「何時」そのエピソードが起きたのかについて正確に語ることは困難なのである。いいかえれば、グラフの横軸は、尺度水準でいって距離尺度ではなく順序尺度の水準なのだ。さらにはエピソードの生起順序を勘違いすることだってあるから、グラフの横軸は弱順序性のレベルのものである。それをグラフの形に描いていいかという疑問が残っていたのだ。たしかにグラフはビジュアルで注目されやすい。しかし、だからといって不正確なものを提示することは避けねばならない。

ERMの登場

そこで思い切ってグラフを削除したERM (Experience Recollection Method; 経験想起法)を提唱するに至った。ここでは大凡の時期(購入した頃、その後、最近から現在)しか時間的な枠は提示されていない。この程度なら、まあ記憶しているだろうと考えたからである。そして重要なのは、エピソードとそれに対する満足感の評価値である。もちろん評価値は、正確にはその時点での評価値ではなく、現在からみての評価値ということになるが、それはそれでいい。

心理学には解釈レベル理論というものがあり、期待感のフェーズから実利用のフェーズに移行するにつれて、機能や性能よりも使いやすさに関心が移行するということが知られている。ERMのエピソードと満足度評価を多数見ていると、おおよそそのような傾向があるように思う。

これらの評価データをエピソードの種類ごとにまとめ、その満足度評価値を平均することによって、ユーザビリティを含めてどのような側面がいつ頃どのような満足や不満を与えているかが分かり、それは次のバージョンを企画するための有用な情報となる。さらに、そこにユーザビリティ上の問題が指摘されていれば、設計段階でのユーザビリティへの取り組みの不十分さが明らかとなる。

なお、注意しなければならないのは、満足度評価に関係しているのはユーザビリティやUIデザインだけではない点である。バッテリーの性能劣化のようなデザインとは関係ない項目も含まれているので、ERMの結果は複数部署が連携して分析する必要がある。

経験想起法シートのダウンロード

編集部より: 黒須先生から経験想起法の記入用紙(PDFファイル)をご提供いただきました。UXの把握をお考えの方は、ぜひダウンロードしてご利用ください。

図
経験想起法記入用紙(PDFファイル)

改変可能なWordファイルがご入用の方は、黒須先生までご連絡ください。