「設計」から「デザイン」へ

デザインという言葉が日本に入ってきて、意匠と設計という意味が付与された。2つが対比的に使われ、デザイナーがプログラミングすると驚かれ、設計者が意匠について発言をすると越権行為とみなされる。これはおかしいのではないか、というのが筆者の実感である。

  • 黒須教授
  • 2020年11月9日

意匠のデザイン

UX原論』にも書いたことだが、先日のHCD-Net関西支部のセミナーでも、デザイナーという言葉の意味が曖昧になってきている現状を指摘し、もう少し系統的なネーミングを使おうではないかという提案をした。

伝統的なデザイナーは、意匠をベースにした仕事をしてきた。彼らは、色と形によって美しさや(人間工学を考慮して)扱いやすさを向上させようという方向でデザイン活動を行ってきた。しかし、後になって新しいデザイン、つまりインタラクションデザインやコンセプトデザインなどがでてきて普及すると、意匠デザインはどちらかというと古臭いイメージを付与され、時には否定的にすら位置づけられることもあった。

だが僕は、意匠デザインはそれなりにとても重要だし意義深いデザイン領域だと考えている。斬新さや極端な審美性を目指すアーティスティックなデザインは日常生活とちょっと距離があるが、色と形は日常生活における審美性の源泉であり、デザインの感性的側面を支える重要な要素でもある。ウィリアム・モリスまで遡らずとも、生活は感性的快適さに満ちていてほしいと思う。

意匠のデザインには、伝統的なデザインの多数の領域が含まれている。プロダクトデザインはもちろん、テキスタイルデザイン、クラフトデザイン、グラフィックデザイン、パッケージデザイン等々である。そうしたデザインが一般化していたなか、20世紀の終わり頃、インタラクションデザインという領域が登場した。そのときは、主にインタフェースにおけるソフトウェアのデザインが注目された。ハードウェア的に提示されるSUI(Solid User Interface)だけでなく、ソフトウェア的に画面に提示されるGUI(Graphical User Interface)が大きな役割を担うことになったのだ。もちろんSUIにおいても車のワイパー操作や方向指示操作などに関してインタラクションはあったが、GUIはインタラクションの塊ともいえる。そこでは、インタフェースのわかりやすさが重視され、意匠だけではないデザインが必要となった。

その後、webが普及するにつれて、ますますインタラクションの重要性は高まることになった。コンセプトデザインという領域も、プロダクトデザイナーやインタラクションデザイナーが、そもそもどのような概念にもとづいて製品やサービスをデザインするかを考え、それにもとづいて意匠を考えていこうという方向で活動をはじめ、デザインプロセスの最上流で製品やサービスのコンセプトを考えようとする動きからはじまった。

このように、デザインという名前の付く多くの領域は意匠のデザインを中心にしていたが、そこから新しいデザイン領域への拡張ないし拡散がはじまり、その結果、ともすると意匠のデザインはもう古い、という印象を持つ人もでてくるようになった。

誤解をまねくネーミング

ここで考えておかねばならないのは、デザインのもともとの英語designである。これは「指示したり、明確にしたりする」という意味のラテン語designareに由来する。要するにモヤモヤしたもの(たとえばアイデアの元)に形を与えてそれを明確に具体化する、という意味と考えていいのだが、それが日本語に入ってきたとき、「意匠」という意味と「設計」という意味を付与されることになった。前者はいわゆるデザインの世界であり、後者は技術の世界である。

元が同じ外国語でも、日本語では異なる読みや音が与えられている例は、裁縫機がミシンであるのに、製造機械がマシンとなったように多数の事例があるが、designの場合はその影響が大きいため看過できないだろう。しかし、長い間、看過されてきたということは、大して重要な違いではないと考えられていたとも考えられるし、それで落ち着いていたのだから、いまさら波風を立てる必要はないだろうという考え方もあるだろう。

実は英語の世界でもこの混同は存在し、話をしていてdesignという言葉を使ったときに、それが意匠の意味なのか、設計の意味なのかがお互いにわからずしばし困惑するということが起きる。ただ、どちらの意味であるにせよ、英語の場合には同じdesignという言葉なので、意味的にそれほど大きな混乱が生じるわけではなく、話は了解性をもって続けられていく。対して日本語の場合、意匠と設計という2つの方向が、ある意味で対比的に使われるようになってしまったため、デザイナーがプログラミングをしたりすると驚かれたり、設計者が意匠について発言をすると越権行為だとみなされたりしてしまうことすら発生する。

これはおかしいのではないか、というのが筆者の実感である。基礎技術や利用する機器や道具類に違いはあるにせよ、元は同じ言葉なのだ、同じ目的のために活動している人たちなのだ、という意識をもっと強くもち、より強く連携すべきではないだろうか。

デザインとデザイナー

筆者の結論を言ってしまおう。それは「設計」や「設計者」という日本語を追放してしまうこと、である。極端でもあるし、多数の関係者の反発を招くこととは思うが、「設計」のかわりに「デザイン」と言って都合の悪い場面が本当にあるのだろうか。

ひとつの例として、JIS規格で使われている「人間中心設計」と、デザイン思考関係者の間で使われている「人間中心デザイン」をとりあげよう。どちらも英語ではhuman-centered designだが、JIS規格ではISO 13407:1999を日本語に訳す時点では、当時の主査として回顧すれば、正直に言ってそれほど訳語をどうするかに注意を払っていなかったように思う。designなら設計でしょ、という思い込みがあったと言ってもいい。他方、現在のデザイン思考関係者は「デザイン」という言葉を使っているからか、人間中心デザインという言い方をしている。このように同じ英語に二通りの訳語が存在している。

今ではHCDは設計というよりはむしろデザインに関することだという認識が広まっているが、逆に、技術系の設計者の間にその考え方が十分に浸透しておらず、その認識が浅すぎることが問題になっているくらいである。ちなみに、HCD-Netのなかでも人間中心デザインという表現を採用したらどうかという意見がでてきているようだ。

ともかく設計や設計者という表現を追放し、すべてをデザインやデザイナーにしてしまうことには、両者の間に存在する意識の壁を取り払う効果が期待できる。この意識の壁というのは、意外に根深く、強い影響を与えるものであり、まずは言葉を狩ってしまうことが必要だと考える。いいかえれば、デザイナーでも技術的なことをやっていいし、設計者でも意匠にどんどん口出しをしていい、ということである。そして、ここから先はデザイナーの仕事だから彼らに任せようとか、ここから先は技術系の仕事だから設計者に任せようという、ある意味での責任逃れの意識が減少しなければならない。

改めてdesignareの意味を思い出そう。それは、モヤモヤしたもの(たとえばアイデアの元)に形を与えてそれを明確化することだった。その意味では、デザインも設計も同じことであり、適用する技術や道具や機器に違いがあるだけなのだ。しかし、両者の間に通底するものが共通であることが強く意識されれば、デザインプロセス全体が、現在よりも円滑になるのではないか。筆者はこのような期待を抱いている。