ポストHCDの可能性
ポストHCDは、予測学のアプローチによって自然環境や社会環境における近未来的な課題を洗い出し、そこから派生する生活や業務について製品やサービスやシステムの在り方を考えてゆくものである。
HCDの実践
現時点でISO (JIS)規格のHCDの定義をそのとおりに受け止め、プロセス図(人間中心設計の活動の相互関連性の図)を忠実にたどって実践している人はそれほど多くない、いや失礼ながらほとんどいないのではないかと思う。むしろHCDについては、各人各様の解釈がなされていて、まあこれならHCDをやっていますと言えるかなといったようなやり方が多くなっているように思う。それはそれでいいと思う。
それでもISO (JIS)規格のプロセス図はひとつのベースラインとして普及しており、多様な手技法を各々の活動に関連づけて説明する試みは多い。
たとえば山崎和彦他の『エクスペリエンス・ビジョン』(丸善出版 2012)では、問題の把握(利用状況(文脈)の把握と明示)については、アンケート、インタビュー、フォトダイアリー、観察といったエスノグラフィックな手法に加えて、ユーザビリティテスト、タスク分析、UDマトリックス、そしてKJ法や多変量解析が取り上げられている。
次の要求の明確化とデザインコンセプトの策定(ユーザと組織要求事項の明確化)については、ストーリー化、イメージ化、マップ化、チャート、ダイアグラム、ペルソナが挙げられている。
さらにデザイン解の発想(設計開発による解決案の作成)については、スケッチ、モックアップ、ペーパープロトタイピングなどが取り上げられている。
デザイン解の評価と決定(要求事項に照らした設計結果の評価)については、チェックリスト、インスペクション法、ユーザビティテスト、官能評価などが列挙されている。
4つの活動段階に関するこれらの手法群は、オリジナルのISO (JIS)規格で指摘されているものと同一ではないが、実際に設計活動を行おうとする場合には比較的理解しやすく、納得できるものだといえる。世間で受け止められているHCDの活動というのも、凡そこのようなものでないかと考えられる。
ユーザの実態調査
ここで、問題の把握(利用状況(文脈)の把握と明示)の段階で用いられているエスノグラフィックな実態調査、つまり観察やインタビューなどについて考えてみたい。これらは、ユーザの仕事や生活の実相を了解的に把握することにより、ユーザの持っている顕在的ないし潜在的課題を明らかにしようとするものである。この段階はデザイン思考では共感(empathy)と呼ばれており、ユーザビリティ担当者はユーザの立場にたってその課題を共感的に把握していくものである。したがって、基本的には課題解決型のアプローチといえる。
この課題解決型という点について不満感を抱いている人は多いようだ。課題解決というのは、良くも悪くもその課題近傍に視野を限定してしまうので、斬新な着想の生成を妨げてしまうのではないか、という気持ちがその底にあるのではないかと思う。その気持ちは理解できる。ただし新たなビジョンをもって未来のとびらを叩くというのは、聞こえは良いが行うは難しである。まして、眼前にある課題を放棄して未来にばかり目を向けてしまうのは、やはり本末転倒というべきだろう。
要するに、課題解決型アプローチを地道に進めながら、同時に(別のチームが担当することで構わないが)未来志向型アプローチを並行させる、という形の設計開発が行われるべきなのだろう。デザイン思考では、着想(ideation)という活動段階が明記されているが、ここで用いられるダブルダイヤモンドなどの取り組み方にしても、現状の課題を洗い出すことから出発しており、基本的には課題解決型アプローチに含められる。この点がHCDないし人間中心デザインの限界ともいえるだろう。
ポストHCDのアプローチ
前述のように、HCDはエスノグラフィックなアプローチを採用し、ユーザを理解し、彼らに共感し、そのうえで彼らの仕事や生活に内在している課題を探り出し、そこから問題解決の糸口を探ろうとするものである。このような地道な取り組みは、地味と言ってもいいだろうが、そこから導き出せる解決案は、現状を一、二歩、前に進めるものであった。
しかし企業にとっては、そうした地道なアプローチでは満足できないところがある。いいかえれば、20世紀に最盛期を迎えた技術中心設計によるような新規技術によるブレークスルーの旨味が忘れられなかったともいえるだろう。たとえ歩留まりが低くても、ということだ。
こうしてイノベーションというキーワードのもと、革新的な新規開発を目指そうという機運が高まっている。これは、現状を一、二歩前進させるアプローチに比して、数歩前進させることを企図しており、未来志向型のアプローチということもできるだろう。この姿勢は、HCDに内在していた限界を破ろうとする試みという意味で、ポストHCDということができるだろう。
ただ、問題は、どのようにして限界を破るか、数歩先を見通すかということである。最新技術の開発をベースにしたのでは、時にヒットする製品やサービスをあてることもできるだろうが、やはり歩留まりは低すぎる。この点は、技術中心設計の抱える本質的な課題である。
アプローチの一つ
それではどうすればいいのだろう。本稿で筆者が提案したいのは、
(1) 未来の環境や状況についての予測をベースにして、
(2) そこにおける仕事や生活のあり方を考え、
(3) そこで発生する可能性のある課題を整理し、
(4) そのうえで解決のためにHCDの考え方による機器やサービス、システムの開発を行おう、
という取り組み方である。そこには自然環境も社会環境もありとあらゆる環境や状況が含まれる。大平徹が『予測学』(新潮社 2020)で取り上げているような未来における様々な変動を含めて考えるべきだろう。
自然環境の変化への対応
(1) 未来の環境や状況についての予測をベースにする
では、次に、自然環境に関してすでに十分な予兆の見えている世の中の変動のひとつとして地球温暖化とそれにともなう海水温の上昇を考えてみよう。すでに予兆がみえているのだから、既存の技術を中心に発展させていけばそれで対応できる部分も多いとは思える。
たとえば養殖漁業を考えてみよう。湾内の生け簀で行われている養殖の場合、魚たちは水温上昇に無力である。自然の状態なら、より低温の水域をもとめて移動すればいいのだが、生け簀ではそうはいかない。結果的に大量の魚が死んでしまうことも起きうるだろう。さらに近年話題になっている陸上養殖では、海水温度を適温にさげるために電力を使わなければならなくなるかもしれない。これは当然コストの上昇につながる。
(2) 仕事や生活のあり方を考える
このようにして、鮮魚市場にでまわる魚の量や種類、そして価格が変化すると、消費者の選好に合わなくなってくる可能性がある。このような状況になったとき、我々はどうすべきだろうか。
(3) 発生する可能性のある課題を整理する
ポストHCDの考え方からすると、適切な価格で購入できる魚種を中心にしたレシピを考える、というマイナーな変革も必要になるだろうし、外気温の影響を受けにくいビルのなかで養殖を行うという変化も考えなければならなくなる可能性がある。ビルでの養殖というのは現在はまだコスト的にメリットがないが、消費地に近いところで養殖ができるため、新鮮な魚を提供できるというメリットも考えられる。
(4) 課題解決のために、HCDの考え方による機器やサービス、システムの開発を行う
どのような対応が必要になり、また可能であるかは分からないが、消費者の嗜好の変化、コスト意識などを考慮して新たな方策が考えだされ、そのために必要な新技術が開発されることになるだろう。
社会状況の変化への対応
次に社会的な状況変化について考えてみたい。自然状況の変化については、科学技術による技術中心設計が有用性を発揮する機会が多いと考えられるが、社会的な変化については自然科学や工学的な技術だけでなく、社会科学をベースにしたポストHCDが強く求められることになるだろう。
(1) 未来の環境や状況についての予測をベースにする
たとえば少子化問題について考えてみると、年金問題や社会の高齢化が問題とされることが多いが、すでに問題となっている労働人口の減少についてはロボット等のICT技術の導入を考えると、将来にわたって問題になる可能性は低いのではないかとも考えられる。
(2) 仕事や生活のあり方を考える
また全人口の減少については将来1億人を割るという予想もたてられているが、問題とすべきなのは国家全体における内部の相対的なバランスであり、それを適切にキープできるようにすれば日本をコンパクトな国家として成立させる可能性がないわけではないだろう。結婚や子供を持つことに対する意識も変化しつつあるが、それもある水準で安定する可能性があるだろう。日本人全体が非婚化し子供をもたなくなるとは考えにくい。
(3) 発生する可能性のある課題を整理する
そうした状態を前提としてコンパクトな国がどうあるべきか、都市と地方における人口分布はどうあるべきか、年金などの社会負担をどうすべきか、高齢者などの介護をどうするか、大規模開発やハコモノ行政を従来と同じウェイトでやっていくのか等々、考えるべき課題は多い。
(4) 課題解決のために、HCDの考え方による機器やサービス、システムの開発を行う
そうした考え方を数年先、十数年先、数十年先にわたって延長していくことによって、どのようなサービスや製品、システムを開発すればいいかという具体的な問題に着地し、そこからポストHCDのアプローチを展開していくことができるだろう。
例外的な事例
最後に、HCDでもポストHCDのアプローチでもなく、技術中心設計のアプローチが結果的に成功した事例をあげておきたい。この例としては、たとえばZoomやWebex、Microsoft Teamsなどのオンライン会議や共同作業のためのプラットフォームを挙げることができる。Webexは1996年、Zoomは2011年(サービス開始は2013年)、Teamsは2017年にそれぞれスタートしているが、その当時は基本的にどちらかというと技術中心設計的なCSCW研究の延長として考えられていたものといえる。
2019年末に発生した新型コロナウイルスのパンデミックのような世界的大事件は自然環境と社会環境の両者に関係しており、それによるオンライン会議のプラットフォームの爆発的な利用拡大は想定しがたかっただろう。中世のペスト禍のような事態が現代にも生じるだろうと予想することは難しかった。
だが、新型コロナのパンデミックが発生したその時点でオンライン会議のプラットフォームがいちおう出来上がっていたことは幸いだった。2019年末からの爆発的流行の結果、人流や物流は停滞し、情報流だけがかろうじて確保されるような状況になり、そこでZoomやWebexが活躍することになった。Wikipediaの「Zoomビデオコミュニケーションズ」の項によると、一日の平均ユーザ数は、2019年12月の約1000万人から、2020年3月には約2億人に増加したという。
いいかえれば、パンデミックを予想していなかったにもかかわらず、技術の進歩が目覚ましく、大規模な情報流への対応について準備ができていたということになる。
このような社会的大変動は、予測が不十分であっても既存の技術や当面の技術開発によって何とか凌げることもあるということが明らかとなったともいえ、HCDやポストHCDだけでなく、技術中心設計にもそれなりの意義があるということを示している。
ポストHCDのまとめ
ポストHCDはHCDを否定するものではなく、それと共存しうるものである。HCDがエスノグラフィックな取り組みによって一、二歩先の問題を取り上げるのに対し、ポストHCDは予測学のアプローチによって自然環境や社会環境における近未来的な課題、つまり数歩先から十数歩先の問題を洗い出し、そこから派生する生活や業務について製品やサービスやシステムの在り方を考えてゆく。
要するに両者はタイムスケールが違うわけであり、ポストHCDでは未来予測にもとづいた課題発見(課題想定)にもとづいて課題解決型の取り組みをしていくわけである。その意味では、単純な技術中心設計とは異なっており、あくまでも未来社会における人間中心設計なのである。
もちろん技術中心設計によって技術開発を推進することも重要だし、たとえ歩留まりが低くても、パンデミックにおいてオンライン会議のプラットフォームが果たしたように、それなりの成果を上げることはできる。しかし、人間や社会の本性にもとづいたHCDやポストHCDの方がより適切な歩留まりをあげることができるだろう、そのように筆者は考えている。