HCDの資格
HCD専門家といっても、全員が全員、インタビュー調査を得意とするとも限らない。専門家としての細目を整理して、どの仕事なら引き受けられるかを示すように資格認定システムを改善してもいいのではないか。
人間中心設計に関する資格について
資格というものには、法的な裏付けのあるものもあれば、裏付けのない民間団体が出している任意のものもある。基本的に前者は法律で決められているものなので、資格がないのに当該の行動をしてしまうと罰則の対象になる。しかし、後者には法令で規定されたものではないため、特に資格を保有していると詐称しても罰則はないものの、一般的には保有するために何某かの基準をクリアしていることを要するため、それなりの社会的信用を得ていることが多い。
人間中心設計(以下HCD)については、NPO法人、つまり民間組織である人間中心設計推進機構(以下HCD-Net)の出しているHCD-Net認定HCD専門家・スペシャリストという資格がある。HCD専門家は、人間中心設計・ユーザビリティ関連従事者としての実務経験が5年以上、またHCDスペシャリストは実務経験が2年以上あり、HCD-Netの設定しているコンピタンスを実証できる実践事例が3つ以上あることが条件となっている。2009年度に第1期の認定者をだしてから2023年度で第15期となり、すでに専門家とスペシャリストを合わせて1000人を超える認定者をだしている。
社会的な認知も進んでおり、名刺の肩書の部分にその資格名称を入れる人も多数いる。その意味で、公的な認知が進んできたといえる。ただ、HCDという活動領域が広いことから、専門家やスペシャリストといっても、その表記だけでは多様なHCD領域のすべてにオールマイティな人物なのか、ある特定の領域に特化した人物なのかがわかりにくくなっている、という課題もでてきている。
たとえば医師と歯科医師について
そこで、ちょっと寄り道をして、似たようなケースとして医師の場合をとりあげて考えてみたい。医師には歯科医師と医師が区別されていて、それは法的にも異なった位置づけがされている。両者を区別することは世界共通のようで、そのようになった経緯を水谷惟紗久は次のようにまとめている。
18世紀後半の外科医であったジョン・ハンターという人は「歯の病気に関する実用的論文」(1778)という論文のなかで、
- 歯、歯肉、歯槽突起などの部位の病気はデンティストの領域
- 一般外科に関する知識は、デンティストには必要とされていない
と書いている。
さらに19世紀になると、1860年にイギリス王立外科協会が世界最初の歯科医師国家試験を実施したのだが、資格取得に必要な知識、技量が、実際の歯科臨床とかけ離れた内容になっていたため、デンティストは、王立外科協会の求める試験内容に学習内容を合致させるよりも、臨床に必要な知識・技術を独自に発展させる道を優先し、その結果、国家試験に参加したデンティストはほとんどおらず、そこから、歯科の独自の発展が進んだ。
「歯科はなぜ医科と別なのか―歴史の分岐点を探る」水谷惟紗久『③Another view 医療システムの過去・未来・海外』 The history; When did medicine and dentistry separate?
というような経緯があり、以来、歯科医師は一般の医師と区別されるようになった、とのことである。ただし、こうした分離は必ずしも好ましいことではなく、森まどかは次のように書いている。
医科と歯科の診療範囲が重なり合う病気や治療は複数あり、それぞれの専門の立場からの連携が重要と考えられています。例えば、口腔内にとどまらず、全身の治療や経過観察が必要な口腔がん(舌や歯肉、頬粘膜等にできるがん)などにおいて、医師と歯科医師の両方の資格を持つ視点が生かされることはあると思います。
(中略)
このように、口の中の健康と全身の健康を同時に考えることが求められる昨今、医師と歯科医師のダブルライセンスでの視点が、より生きてくるのではないでしょうか
内科、外科…は「医師」、歯科だけ「歯科医師」なのはなぜ? 歯科医師ができることは?
このように、歯科医師は一般の医師とは区別された資格制度のなかにある現状ではあるが、理想的には両者は融合すべきであるといえるのだろう。
診療科の名称
それでは、現在、どれくらいの診療科が区別されているかというと、日本医師会のサイトには詳細な情報が掲載されているが、それらをまとめた厚生労働省近畿厚生局のサイトの表1がわかりやすいだろう。ここには歯科系を含めた46の診療科名が挙げられている。
さて、これ以上医学領域に立ち入ることは本稿の目的ではないので避けることにするが、この一覧表を見て考えさせられるのは、医学というものが専門領域によって46ものMECE (Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive)な診療科に分けられていることである。医療機関はその診療科の中から該当する科目名を標榜することになるわけだが、なかには「内科・小児科」とか「婦人科・産婦人科」などのように複数の科目名を掲げているところもある。この表記によって、我々はどこの医療機関にかかればいいかを判断しているわけだ。いいかえれば、該当しない診療科目を医療機関に求めることはしていない。この点が重要なことであり、たとえば皮膚科の医院に心臓外科の手術を求めたり、精神科の医院に婦人科の治療を求めたりすることはない。つまり、単に医師というだけでは、自分の心身の不具合を診てもらえるかどうかは分からない、ということである。
HCDにおける細目
ここで話はようやくHCDに戻る。HCDはISO/JIS規格によれば、関連する専門領域について以下のような専門職の参加が求められている(JIS Z 8530:2021)。
設計及び開発チームは,次の技能分野及び観点を備えることが必要となる場合がある。
JIS Z 8530:2021 人間工学―人とシステムとのインタラクション―インタラクティブシステムの人間中心設計
- 人間工学,ユーザビリティ,アクセシビリティ,ヒューマン・コンピュータ・インタラクション,ユーザリサーチ
- ユーザ及びその他のステークホルダグループ(又はその視点を代表できる者)
- アプリケーション分野の専門知識,関連領域の専門知識
- マーケティング,ブランディング,販売,技術支援及び保守,健康及び安全
- ユーザインタフェース,ビジュアルデザイン,プロダクトデザイン
- テクニカルライティング,研修,顧客支援
- ユーザの管理,サービスの管理及びコーポレートガバナンス
- 経営分析,システム分析
- システム工学,ハードウェアに関わる工学及びソフトウェア工学,プログラミング,生産・製造及び保守
- 人的資源,持続可能性及びその他のステークホルダ
しかし、現在の広義のHCDやUXの領域では、これらの他に次のような職名が頻繁に使われており、「人間中心設計専門家」とか「人間中心設計スペシャリスト」といっても、その資格を保有している人物の専門領域(得意分野)がどこなのかは分かりにくくなっている。
- アートディレクター
- インタラクションデザイナー
- インフォメーションアーキテクト
- グラフィックデザイナー
- コーダー
- コンサルタント
- システムエンジニア
- テクニカルライター
- デザインマネージャー
- データサイエンティスト
- ビジュアルデザイナー
- ファシリテーター
- プランナー
- プログラマー
- プロジェクトマネージャー
- プロダクトオーナー
- プロダクトデザイナー
- プロダクトマネージャー
- マーケッター
- ユーザビリティエンジニア
- ユーザリサーチャー
- UIデザイナー
- UXデザイナー
- UXリサーチャー
- UXer
- Webディレクター
まだまだあるかもしれない。いいかえれば、HCD専門家やHCDスペシャリストといっても、全員が全員、インタビュー調査を得意とするとも限らないし、全員が全員、ビジュアルデザインを得意としているとも限らないのだ。
対策のあり方
こうしたことを考えると、総称としてのHCD専門家やHCDスペシャリストという表現…これは医師という表現に該当する…は残しつつも、認定にあたってはその専門家としての細目…これが各診療科に相当する…を整理して、どの細目の仕事なら引き受けられるかどうかを示すように資格認定システムを改善することを考えてもいいのではないか、と考えられる。つまり、HCD専門家(ユーザリサーチ、認知心理学)とかHCDスペシャリスト(ビジュアルデザイン)といった具合である。こうすれば業務委託をする場合にも期待と実体がずれることなく、円満な関係を築いていけるように思うのだが。もちろん、そのためには、まず、多数の専門技能を整理して、公式な技能リストを整備しておく必要がある。いかがだろうか。