ロシアにおけるユーザビリティ活動

ソビエト連邦からロシアに至る人間工学やユーザビリティの動向を概観したところ、人間工学はそこそこ活躍していたようであるが、ユーザビリティやHCIはまだ揺籃期にあるという印象を受けた。

  • 黒須教授
  • 2022年12月14日

ロシアってどうなってるの…素朴な疑問

ウクライナ侵攻で話題にのぼっているロシアだが、戦争以外の面では情報が乏しく、筆者を含めて多くの日本人はあまりロシアのことを知っていないように思う。ましてや、そこにおける人間工学や心理学、ユーザビリティやUXの活動がどうなっているかについては、今回、この原稿のために調べてみるまでは筆者は全く知らなかった。

しかし、ソビエト連邦の時代、この国はアメリカよりも先に宇宙開発に手をつけた技術先進国だというイメージがあった。そして世界中を破滅させられる程の核ミサイルを保有し、強大な軍事力を持っていると喧伝されていた。またソフトウェアではセキュリティソフトのカスペルスキー(1)あたりは有名だが、社会科学や人文科学の分野がどうなっているのかはよく分からない国でもあった。

たとえば心理学の領域でロシアといえば、帝政時代からソビエト時代を生きた生理心理学者のパブロフとか、活動理論の祖とされるヴィゴツキーとか、ソビエト時代に眼球運動で有名になったヤーバスあたりの名前は知っていても、さて最近はどうなのかとなるとよくわからない。ましてやユーザビリティやUXとなると…という状態である。そこで今回はネット検索をして文献をさがし、ちょっとロシアの状況を調べてみることにした。

ロシアにおける人間工学

まずは、ユーザビリティの源流になっている人間工学の状況について調べてみた。参考にした論文は、岸田孝弥(1997) “ロシアの産業・組織心理学” (2)である。この論文は、ソビエト連邦からロシアが成立した1991年より後に書かれており、内容的にはソビエト連邦時代とロシア時代初期の実態の紹介になっている。

岸田がソビエト連邦における労働科学に関心をもった発端は、科学的労働管理法を提唱したテイラーと同様の労働組織合理化運動であったスタハノフ運動というものを知ったときとのこと。そして内海義夫(1972)の『ソビエトの労働科学』(3)という本にたどり着き、労働行政の実務に関する実情を調べている。それによると、1970年当時のソビエト連邦では、労働心理学というタイトルのもと、職業適性や労働育成、労働条件、心理工学などのエルゴノミクス、つまり労働科学が研究されていたようである。日本人間工学会の設立が1964年だから、人間工学の成立はほぼ日本と同時期だったといえる。

学会としては、ソビエト連邦時代に1986年にソビエト人間工学会(SEA: Soviet Ergonomics Association)が組織された。その後、1995年にロシア人間工学会(IREA: Inter-Regional Ergonomics Association)が組織され、国際人間工学会に加盟している(4)。

岸田によると、ソビエト・ロシアの人間工学でカバーされている領域は、「当初は、労働生理学、人体測定学、IE、視覚遂行能力、ディスプレイと操作具、軍事、航空、運輸の分野であり、その後、HCI、 ソフトウェア人間工学、安全、航空宇宙、教育医療機器、環境設計、テストと評価に拡大」したという(引用者注: IE = 経営工学)。実際にどのような研究活動が行われているかにもよるが、HCIや評価が含まれていることは、ちょっとした安心材料ではある。

なお、人間工学や工学心理学の学科やコースがある大学は、論文の発表時点(1997)で、「サンクト・ペテルプルグ国立大学、ヤロスラプ国立大学、モスクワ国立大学、トヴェリ国立大学、モスクワ航空大学、モスクワ無線電子大学、モスクワ電子工学大学、サンクト・ペテルプルグ国立電子技術大学」の8大学だったという。これは当時としても国の規模を考えた場合に多いとはいえない。また、「ロシアで人間工学が主に利用されているのは軍事分野であった」ということだ。いいかえれば、民需に対応する国内の産業活動が活発ではなかった、というように考えられるだろう。

ロシアにおけるユーザビリティ

もう少し、ユーザビリティに焦点化して実態を把握するために、ベリシュキンの論文(5)を見つけて読んでみた。まず産業構造について、ベリシュキンは、ハイテク産業は、石油や天然ガスなどの資源の強大さに妨げられている、と述べている。具体的には、2009年のIT産業の対GDP比はわずかに1.5%だったそうだ。いいかえれば、いまだにエネルギー関連の一次産業が主体で、軍事、宇宙開発、航空、船舶、鉄道などに関連した二次産業があり、三次産業の健全な発達は阻害されている、ということなのだろう。特に、ソビエト連邦時代には、民生品やサービスの質は極端なほど貧弱だったという。さらにGDPの1.5%のIT産業のなかで、ユーザビリティサービスはその1%以下の比率しかない、つまりその規模はとても小さいということである。

それでもインターネットは普及しており、2009年には、全人口の35%が半年に一度はインターネットを利用していた。そのためウェブ開発への投資はそこそこあり、SNSや地理情報システム、ニュースポータルなどは成長している。その結果、グラフィックデザインやユーザビリティへの関心は相対的に高まってきてはいた。またモバイル通信の発達は著しく、全人口の85%がモバイル通信を利用している。そのため、モバイル通信業者は国内外のユーザビリティ部門と連携をしている、とのことだ。

そもそものコンピュータ産業は、ソビエト連邦の時代にはメインフレームが主体であり、パーソナルコンピュータは顧みられることがなかった。しかしロシア時代になってから以降、パーソナルコンピュータへの要求が高まり、多数のソフトウェア開発企業が設立された。同時に、ユーザフレンドリーという言葉が輸入されて広く使われるようにもなった。ただし、その内実はグラフィックインタフェースを使えば、ユーザフレンドリーになると考えられていたようなレベルだった。

HCIのはじまり

ソビエト連邦最後の年である1991年に、第一回HCI国際ワークショップが開催され、翌年からはロシアを東と位置づけ、欧米を西と位置付けたEWHCI (East-West Conferences on Human-Computer Interaction)が1996年まで開かれた。これはアップルやACM SIGCHI、人間工学会などの支援を受けたものだった。ちなみに、西側からの参加者の関心は、ヴィゴツキーに始まる活動理論にあり、それによってHCIの問題を解決できるのではないか、という点にあった。しかし、活動理論は1980年代なかばまで、北欧を除き、欧米ではあまり知られることはなかった。

1990年代中期の経済危機のために、ロシアのHCI研究は打撃を受け、頭脳流出が始まった。EWHCIも、ロシアで開催される欧米研究者のための学会となってしまった。ユーザビリティへの関心は低下し、ソフトウェア企業もそれを製品の差別化要素とはみなさなくなっていた。

その後の展開

2000年代に入ってから、ロシアでは、Usethics (2001設立)、UIdesign Group (2003)、UsabilityLab (2006)、HumanoIT Group (2007)、HCI.ru (2008)、UI Modeling Company (2008)、interUX Usability Engineering Studio (2009)といったユーザビリティ関連の企業が設立された。スタッフは数人から多くて十数人の規模である。フリーランスのユーザビリティ専門家も30人ほどいる(これはあくまで、2011年の執筆時点の話であることに注意)。ただし、ユーザビリティテストを実施しているのは前記の7企業のうち4つだけであり、ほとんどはUIデザインに注力している。

外国企業による(リモート)ユーザビリティテストやインスペクション評価も行われているが、ロシア語という制約が大きい。英語を話せる人は非常に少ない。また、対面のテストを実施するにはテストまでの距離の問題があるし、リモートテストを実施するにはタイムゾーンが11もあるという点も制約条件になっている。また大きな国であることが関係して、収入格差、嗜好の違い、生活態度の違いなどが存在していることも、簡単な評価の実施を妨げている。いいかえれば、大規模なユーザビリティ調査をロシアで行うのは困難、ということである。また、ユーザの態度、つまり、操作の困難さにであっても、なんとかやり遂げようとしがみついてしまい、諦めようとしないというメンタリティの問題もある。

HCIについては、1992年にACM SIGCHIのロシア支部(MosCHI)ができたが、1990年代末には、EWHCIと同様に休眠状態に入ってしまった。その後、1999年にUsability in Russiaというサイトができてユーザビリティ活動は息を吹き返し、2001年から2004年の期間には14回のミーティングが実施され、ロシア西部から25-40人の参加者があった。そしてACM SIGCHIと再びコンタクトをとり、Russian SIG (RusCHI)ができることとなった。また2006年からはWorld Usability Dayにも参加するようになった。2008年には若い関係者や学生のコミュニティとしてErgoProが設立された。さらに、人間工学では、IREA (Inter-Regional Ergonomics Association)という組織が1995年から活動を行い、国際人間工学会(IEA)にも参加している。

このようにロシアのHCIやユーザビリティの活動はハイレベルとはいえない状況にあるが、それは、国の予算支援がないことと、ハイテク産業が実質的に存在しないことと関係している。

まとめとして

ソビエト連邦からロシアに至る人間工学やユーザビリティの動向を概観してきたが、人間工学はそこそこ活躍していたようであるが、ユーザビリティやHCIはまだ揺籃期にあるという印象を受けた。国際学会の発表で、ロシアからのものをほとんど見かけないのもそれと関係がありそうである。さらにウクライナ侵攻という現在の状況があり、ロシアの産業、特に軍需産業などの重工業以外の民生品に関する二次産業、そしてサービスを中心とした三次産業の全体が復旧し、欧米や日本のレベルに到達するにはかなりの時間を要すると思われる。ベリシュキンの論文の後から現在に至る状況は分からないが、UXとかデザイン思考とか、いや、UCDという考え方すら、まだまだ難しい状況なのではないかと思われた。

参考文献

  1. Kaspersky commits to Russia | ITWeb
  2. 産業・組織心理学研究、10(2) pp.93-109
  3. 労働科学叢書32巻
  4. Inter-Regional Ergonomics Association (IREA)
  5. Belyshkin, A. (2011) “Usability in Russia” (in Douglas, I. and Liu, Z. (eds.) “Global Usability”, Springer-Verlag