理論から実践への移行の時

『人間中心設計におけるユーザー調査』などの書籍の仕事も終わった2021年の夏頃、僕はちょっとした燃え尽き症候群になってしまった。そんな状況にいるなかで思い出したのは原点ともいえる『ユーザ工学入門』を書くことになったモチベーションである。

  • 黒須教授
  • 2022年1月26日

もう書き尽くしたのだろうか

2020年春に僕は『UX原論』を出した。そこには原論というタイトルどおり、筆者のユーザビリティとUXに関する考え方をぎっしりとつめこんであり、脱稿したときの脱力感はかなりのものだった。「もう、これでいいや」、「もう書くことはなくなったな」という気持ちになった。まあ、本の執筆というのは毎回、脱稿するたびにこうした気持ちになるものだが、今回はちょっと特別だった。

1999年に『ユーザ工学入門』を出して、書籍の形ではじめて自分の考えをまとめたつもりだったけれど、全体の構成に多少の自分らしさがあったにせよ、基本となっていたのはISO 13407:1999であり、ちょっと借り物という気持ちがしないでもなかった。

しかし『UX原論』の場合は、『ユーザ工学入門』の時から20年を経ていたこともあり、また、その間に自分の考えとISOの考えの違いが鮮明になってきており、ISOの規格はあくまでも参考資料という形で引用した。製品とサービスの関係についても、設計プロセスと開発プロセスの関係についても、UXに関わるユーザのメンタルモデルにしても、すべてその20年の間にまとまってきたものである。

筆者は、概念定義をあいまいにして議論することが最も嫌いなたちである。当たり前のことといえば当たり前なのだけど…世間の人々の多くは概念定義を曖昧にしたまま主張を行い、議論をしているようだった。HCDについてはまだISO規格があるから良かったのだが、特にUXについては定義が曖昧で、誰が何のことを語ろうとしているのか、その意図すらつかみにくいような状況だった。僕はそうした状況に憤慨した。そして、その怒りがモチベーションとなって僕に『UX原論』を書かせた。

そうした状況のなかで『UX原論』を出版した。そんなに部数がはけているわけではないが、それは出版社の販売力や広告宣伝の問題であり、ウェブでは好意的な評価が多く見られた。もう、これでひと仕事終わった。そういう気持ちになったとたん、次に何をしたらいいかが分からなくなっていた。

幸い、近代科学社のHCDライブラリーの第4巻『人間中心設計におけるユーザー調査』の仕事は残っていたし、それを書き終わるころにはHCDの受容のされ方に関する書籍の仕事も新たにでてきた。それで、それぞれに没頭した。

そして、それも終わった2021年の夏頃、ちょっとした燃え尽き症候群になってしまった。さて、何かやりたい。けれど何をやればいいのだろう。そんな状態になってしまった。メンタル的には最悪の状態になってしまった。

気づき

そんな状況にいるなかで思い出したのは原点ともいえる『ユーザ工学入門』を書くことになったモチベーションである。その本はISO 13407:1999を紹介する形になっているが、ISO規格を紹介することが僕のモチベーションだったわけではない。1991年に『認知的インタフェース』の執筆に参加させてもらった時から、僕のなかにはある憤りがあった。それは1990年に出版されたノーマンの「誰のためのデザイン?』の執筆動機と同じものだったろうと思っている。なんで、こんなに使いにくいものが世の中にはあふれているんだ…そうした憤りがノーマンにあの本を書かせたのだろうし、僕も同じことを感じていた。

そしてISO 13407:1999が出され、それで企業が進むべき方向性は決まった…筈だった。さらにUXについては『UX原論』を出して、その方向性はさらに明確になった…筈だった。しかるに、世の中に出回っている製品やサービスはどうだ。少しは良くなっていると思うけれど、いまだに使いにくいもの、分かりにくいもの、満足できないものにあふれているではないか。

そうなのだ。概念を整理するだけでは駄目なのだ。世の中からユーザビリティが低いもの、UXが貧弱なものをなくす努力をしなければいけないのだ。それをこれまでの僕は、我々が目指すべき方向を示すだけで自己満足してきた。それはそれなりにきちんとしたものができた、と思っている。しかし、世の中の人工物にはまだ良くなっていない部分が依然としてとても多い。

であれば、次にやるべきことは企業関係者をその方向に向かわせることだ。あるいは、企業関係者がその方向に向かっていない理由を探り、それを叩き潰すことだ。遅まきながら、そう思った。これまでは研究者として問題に取り組んできた。しかし、これからは実践家としても取り組むべきなのではないか。いや、実践家として取り組む体力に乏しいと思うなら、少なくとも戦略を考えるべきなのではないか、今風にいうならストラテジストになるべきではないのか。そんなふうに考えている。