幸福のデザインを忘れていませんか

利潤の増大はあくまでもUCDやHCDの結果のひとつであり、主要な結果は人々の満足感や幸福であるはずだ。そのことを忘れてしまったように見える昨今の状況においては、本来、我々が目指すべき目標が何だったのかを改めて知らせることが必要だろう。

  • 黒須教授
  • 2019年5月20日

マーケティングに毒された最近のUXD

現在、UXD関係者の焦点は、より高いUX水準を持ち、その結果、より一層ユーザに受けいられる、つまり購入したり利用したりしてもらえる人工物(製品やサービスやシステム)の設計と提供に偏ってしまっている。これは世界中で同じような傾向が見られているが、果たしてそれで良いのだろうかという反省が見られない。少なくとも僕の耳には入ってこない。

資本主義の世界では、製造手段や提供手段をもつ人々(資本家)が、それを持たない人々に働く場や手段を提供したり、その結果として得られる産品を提供したりしてその代価として利潤を得る仕組みになっている。そして近年のUXDは、ユーザと呼ばれる後者の人々を調査し、各種の代案を考案し、複数の代案を評価して最適と思われるものを市場に提供する、という流れのなかに組み込まれている。畢竟、これは資本家サイドに高い利潤を提供するための仕組みであり、ユーザの満足感はどちらかといえばそれを支えるための副産物とでもいう形になっている。

もちろんマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を書いた1848年当時とは社会状況が異なっている。資本家と労働者はかなりの程度、相互に入り交じり、一般的な社会組織の水準も人々の生活水準も当時よりは高くなっている。さらに社会主義国において行われた数々の実験により、素朴な社会主義や理想としての共産主義は世界中の人々に幻滅を与えることとなった。もはや素朴な二元論的な社会主義や共産主義の出てくる幕はない。

ところで、ユーザビリティの初期の時代、つまりシャッケル(1991)がリチャードソンとの共著のなかの論文で考えていたのはユーザ中心主義であり、市場中心主義ではなく、利潤追求主義でもなかったはずだ。その理想はある程度忠実な形でISO 13407:1999そして後継のISO 9241-210:2010に引き継がれたが、世間の大半はそれを単なる知識として受容し、実態としてはデザイン思考という概念枠-そう、これは概念枠にすぎず、設計プロセスやそこにおける諸活動を見ればUCDやHCDとほとんど変わらないのだが-にしたがってデザイン経営という概念形成にまで持ち込まれ、資本主義社会における理念的目標にすらなりかねない状況である。そしてUXDは、そこに向かって走っている。消費者に、顧客に、ユーザに受け入れられる人工物をデザインしようとしている。見方を変えれば、それはUCDやHCDがマーケティングの領域にほぼ完全に取り込まれてしまった姿であるともいえる。

UCDやHCDの結果のひとつとして利潤の増大を考えることは、もちろん可能である。しかし、それはあくまでも結果のひとつであり、主要な結果は人々の満足感や幸福であるはずだ。そのことを忘れてしまったように見える昨今の状況において関係者に反省をうながすには、意図的にアンチ・マーケティングの姿勢をとるよりも、本来、我々が目指すべき目標が何だったのかを改めて知らしめることが必要だろう。集団心理の動きとしてデザイン思考などにたぶらかされてしまっている、いわゆるデザイナー諸氏の頭を切り替えさせるためには、新たな目標設定が必要なのだ。もちろん、それと同時に、あまりに多義的につかわれ、意味が拡散してしまっているデザインという概念について再考することも必要だろう。

そうした目的のために、今回から短期連載として、まずグランド・チャレンジの話をしたいと思う。

グランド・チャレンジ

UCDもUXDもインタフェースデザインの流れのなかから生まれてきた。ただ、残念なことには、コンピュータの進歩と普及という動きが先にあり、人間サイドからの主張は後回しになってしまった。人間には完全な予測力はないため、作ってみて、あれ、これじゃ駄目なのかなあ、じゃ、ちょっと考え直すか、という程度の反省をするしかない。1980年代のパーソナルコンピュータの出現当時は、業界全体のスピードが現在と比べればまだゆったりしていたので、それでも良かったのだろう。もちろん、当時はそうした反省をしようとするセンシティビティすら弱く、こんな素晴らしいことができるんだからそれでいいだろう、というような傲慢な機能中心主義者が跋扈してもいた。その意味で、1980年代からの40年間のUCDやHCD関係者の努力は、そうした機能中心主義にある程度の反省を強いる結果となった点では評価できるものだ。

しかし、使いにくさ、わかりにくさから出発したUCDやHCDという考え方は、人間については、使いにくさやわかりにくさを解決しておけばいいんだなという誤解をうんだ。そして、いやそれだけじゃ無くてもっとモチベーションを高める仕組みが必要なんだよという、ちょっとはマシな誤解も生まれてきたが、そのレベル止まりであった。

それらの動きを否定はしない。それらはそれなりの役割を果たしてきた。しかし20世紀後半におけるインタフェース設計のアプローチは、ユーザビリティという概念に集約されてしまうものではない。かなり以前に紹介したリックライダーの“Man-Computer Symbiosis” (1950)という論文は、コンピュータという新規な人工物に対して彼の予想を含めた将来のあり方を提起したものであり、その内容をコンピュータに限らず人工物全般に対して一般化して考えれば、重要な提言だったといえる。

さて、このリックライダーの論文に対応したような現在の動きがようやくにして動き出した。それがグランド・チャレンジ(大いなる挑戦)という考え方である。これには二つの原典がある。ひとつは『ユーザーインタフェースの設計』という著書(第二版の翻訳が1995年に出版されている)を出したシュナイダーマンと共著者たちによるもの(2016)であり、もうひとつはHCI Internationalという国際会議に包括される各学会の大会長達、総勢32名の共著として出される予定の論文(2019)である。この二つの論文は、いわゆるユーザビリティに関するものではなく、UXというよりはHX (Human Experience)とでもいうようなテーマ、つまり現在および近未来の世の中における人間の幸福のあり方に関わるものといえる。

これらについて、次回以降、順次紹介していきたい。