経験値の重要さ

デザイナーは、まず20代のうちに、ユーザとの接触経験を積み重ね、ユーザの多様性を自分の体験として蓄積していくことが大切だ。そうして得た情報は、脳内に蓄積され、整理されてユーザに関する経験値となる。それが30代以降、ユーザにとって有意義なデザインをつくりだす役に立つ。

  • 黒須教授
  • 2021年1月13日

乱立するデザイン手法

世の中には多くのデザイン手法が提案されている。タイトルにUXデザインと付いた書籍とか、なになにデザインというタイトルの書籍とかは、たいてい、デザインのための手法を紹介している。僕自身、HCDやUCDに関係した書籍で、ペルソナやシナリオなどのほか、TFD (Time Frame Diary)やERM (Experience Recollection Method)など自分で開発したいくつかの手法を紹介してきている。

デザイン手法は多々あるのだけれど、僕が気になっているのは、ユーザを調査して、そのニーズを引き出したりする類のものだ。デカゴンモデルでいえば、ユーザ調査(共感・洞察)やUX調査から分析に至る段階でデザイナーを支援する手法群である。ここで具体的に手法名をあげることは、その開発者の努力をディスることになりかねないので控えることにする。

ともかく、それらの手法のなかには、用紙に枠取りがしてあって、それぞれの枠に必要事項を記入していく形になっているものが多い。その作業は結構めんどうくさいもので、枠に記入し終えると、なにか一仕事を終えたような気持ちになる。いや、そのような気持ちになってしまうことにこそ問題があるのかもしれない。その一仕事というのはまだまだ途中のステップにすぎないのに、さもデザインが完成したような気持ちにさせてしまうのが、こうした手法の怖いところである。もちろん、何も考えずに記入できるわけではなく、記入するためには思考をめぐらし、想像力を発揮することになる。その意味では、記入しおえた用紙に意味があるというよりは、用紙に記入する作業を行ったことに意味があるといえる。

これはホルツブラットのコンテクスチュアルデザインのワークモデルでも同様で、描きあげたモデルに意味があるというよりは、そのモデルを描こうとしてチームメンバーで討議をしたり考えたりするプロセスの方に意味がある。

デザイン手法の有効性

こうした所謂デザイン手法に比べると、TFDやERMは、ユーザに自分の行動を記録したり、回想して記入してもらうものであり、その次の段階で実施するユーザインタビューのための材料を見つけ出すものである。いいかえれば、デザイナーは、TFDやERMを使う際に知恵をしぼる必要はなく、むしろ、その後のインタビューの段階で直感と洞察を働かせ、得られた発話情報を適切に統合することが必要になる。その点で、枠形式のデザイン手法とは一線を画している。というか、筆者自身は、そもそも枠取り用紙に記入していくデザイン手法が肌に合わないというか、そんなことは頭で考えればいいことなのに、などと思ってしまうのだ。

こうしたデザイン手法に対して、筆者はまったく否定的、というわけではない。特に、実際のデザイン経験のない学生には、デザインの流れや情報の整理の仕方を教えるという形で、いわば先人のデザインノウハウを伝授することになるので、その意味では有用だろうと思っている。しかし、大学を出てから現場に入ったデザイナーがいつまでも利用していくものではないし、具体的に言うなら30代を過ぎたデザイナーが使うものでもないだろう、と思っている。

デザインの現場に入った人々は、一度ならず、何回もユーザ調査を行い、いろいろなユーザに対面し、その多様性に驚き、それらの人々の情報やイメージを自分のなかに内化してゆくことになるはずである。もし、デザインワークをするなかで、ユーザに対面することがなかったとしたら、それはユーザとは別の人間であるクライアントとの交渉のなかだけで勝手なイメージを作り出してゆくことになり、そういうデザインワークをさせるオフィスからは早々に転職することをおすすめする。まして、実ユーザとの対面経験なしにペルソナを作らされるようなことがあるなら、即刻オフィスをあとにすべきである。

ユーザとの接触経験と経験値

デザイナーは、まず20代のうちに、ユーザとの接触経験を積み重ねることが必要だ。そのためには、傍目には遊んでいると思われてしまいそうなことをしていてもいい。ともかく広く深く人間を知ることだ。『UX原論』には、ユーザの多様性について詳しく書いておいたが、そうした多様性を自分の体験として蓄積していくことが大切だ。『UX原論』にああ書いてあったから、はあそうか、なるほどな、と思うだけでは不十分なのである。そうして得た情報は、脳内に蓄積され、整理されてユーザに関する経験値となる。だから、もちろんのこと、単に遊んで時間を過ごしてしまうことではいけない。必ず、頭のなかでそれぞれの人との接触経験を振り返り、どのような人がどのような考え方をし、どのようなニーズをもっているのかを整理してゆかねばならない。

こうして蓄積された経験値が30代以降、ユーザにとって有意義なデザインをつくりだす役に立つ。この経験値はデザイナーの財産である。もちろん30代以降も経験値はどんどん追加されてゆくべきだが、主力はいわゆるデザインワークの方に向けられることになる。この経験値が多ければ、わざわざペルソナを構築しなくても良いデザインは可能である。もちろん、ペルソナには、チームでユーザ像を揃えるとか、クライアントにユーザ像を説明するという効果はある。だから、その意義をまったく否定するものではないが、経験値のなかのユーザとイメージ対話をすることで、デザインのイメージを作り上げてゆくことはできるはずだ。

また、製品やサービスによって必要なユーザ像が異なることはある。だから、製品やサービスごとにユーザ調査やUX調査を行うことには意味がある。そのようなときにはTFDやERMを利用し、インタビュー調査で深堀りをすればいい。これは30代以降の一人前のデザイナーにとっても重要なことである。ただ、少人数で行った調査の結果に一般性をもたせるのは、大脳に存在する経験値である。インタビューを行った相手がどの程度極端な人か、よくいそうな人か、といった判断は、その経験値に照らすことによってはっきりしてくる。

経験値は、特にユニバーサルデザインやアクセシビリティデザインを行う際にも有用である。高齢者や障害者専用の製品やサービスを開発するならともかく、一般の製品をデザインしていて、それが高齢者や障害者にとっても使いやすいものかどうかを考えるために、デザインをする都度、いちいち個別に高齢者や障害者に調査をしてペルソナを作って、ということをしている余裕はないことが多い。そうした時、過去に多様な高齢者や多様な障害者に会い、その生活を知り、その状態を知り、その問題点を捉えて経験値に蓄えておけば、それがデザインを行う際の手がかりとして重要なものになるだろう。このような意味でも、豊かな経験値はデザイナーの財産となるのだ。

図1は、ユーザ調査やUX調査、そしてその調査結果の分析という活動を、経験値との関係でデカゴンモデルの骨格のうえに示したものである。これまで述べてきた内容がシンプルに表現されていることがわかるだろう。なお、前回述べた、着想から具体化、そして評価・検査という流れとの関係を示すために、その部分を薄い色で表示してある。

図1 ユーザ調査やUX調査と結果の分析という流れと経験値の関係

経験値に関する課題

しかしながら、ここに問題がある。実際には、経験値の低いデザイナーが結構いる、ということだ。もちろん実際にカウントしたわけではないから、たしかにと思う人もいれば、そうかなあと思う人もいるだろうが、筆者や筆者のまわりの人々の間では基本的な意見の一致をみている。

経験値の低いデザイナーには2種類を区別することができる。一つは多様なユーザに接する経験を若い時に持ってこなかったデザイナーであり、もう一つはせっかく多様なユーザに接する機会があっても、漠然とした経験しか積み重ねてこなかったために経験値といえるものが形成されていないデザイナーである。前者はまだ救いようがある。たとえば30代になっても経験値が低いデザイナーの場合には、積極的にユーザに会う機会を設け、経験値の蓄積を開始させればよい。しかし、後者は難物である。これは日常の生活態度にも関係するし、知的水準にも関係するのだろうが、内省的な態度をもたず、情報を統合する能力をもっていない人は、そもそもデザイナーに向いていないというべきではないかと思っている。